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2017年5月22日 (月)

人工知能と呼ばれているものは、頭脳とは無関係なのに、専門家のデタラメ解説に惑わされている 「ニューラルネットワーク」「深層学習(ディープラーニング)」「機械学習」「量子コンピュータ」「量子アニーリング」 NHK サイエンスZERO「ついに出た!?夢の”量子コンピュータ”」「人工知能の大革命!ディープラーニング」「人間ってナンだ?超AI入門」「D-Wave」「西森秀稔」「松尾豊」「大関真之」「清水亮」

「人間の頭脳がやっていることに似ている」だから「人工知能」である、と言ってしまうと、現代の科学技術の時代では、そんなことは山ほどある(自動ドアだってホテルのドアボーイと同等のことをやっているし、自動販売機だって販売員と同等のことをやっている)。
だが、将棋ソフトともなると、純粋に、難しい思考そのものをにコンピュータにやらせているので、そうなると人工知能と呼びたくなるだろう。そのような意味で「人工知能」と呼ぶならば意味がわかる。
 
しかし、ここ何年かブームになっている、「深層学習(ディープラーニング)」を使ったものになると、様相が変わる。「ニューラルネットワークという、生物の脳の仕組みをコンピュータで実現したもの」、などと解説されるのだ!これは大嘘である。
 
典型的な説明は次のようなものである(西森秀稔・大関真之「量子コンピュータが人工知能を加速する」より抜粋して編集)
「大脳には数百億個の神経細胞があり、他の神経細胞とつながっている。電気信号が伝わって次の神経細胞に向かって信号を送る。これをモデルにしたシステムがニューラルネットワークである」
 
人々はこれを聞くと、人間の頭脳を模したものを作り、それに考えさせていると思うのだ。
 
確かに昔から、人間の脳を模したモデル(パーセプトロン、ニューラルネットワーク)を考え、パターン認識を行い、学習能力をもつようなものは研究されてきた。しかしその「模した」の程度がどのようなものかというと、「再現」したのではなく、実用化できそうな構造を考えて、それをプログラムで動かした、脳とは別のものであり、脳もどきと言うよりも、その機能の説明に神経細胞の雰囲気を残した、というぐらいなものだ。
 
できあがった構造は、ルートの分岐点の調整がダイナミックに行える階層的なネットワークであり、「人間の脳を模した」を言われるからそう見えるのであり、言われなければ、何にも偏ってない(どんなものでも機能構造を設計すれば階層構造になるのが合理的であり当然のことである)オーソドックスな(奇抜なところがない)、新しい仕組みのデータ処理構造である。
 
説明も、「入力ベクトルがニューロンからの神経インパルス入力に相当し、重みベクトルはシナプスに相当します。そして活性化関数を通したものを出力します」など神経細胞の用語を混ぜて神経細胞の働きとして説明しているが、そんなものはまったく不要であり、単純に「入力ベクトルの値に対する重みベクトルを掛け合わせたものを関数の値として出力します」でいいのだ。
 
人間の脳の仕組みを真似ようにも、その動作の様子がうっすらと見えてきた程度なので、真似しようもなく、「ヒントにして新しく考えた出したもの」と言うのが実際のところであろう。
例えば、「クレーンは人間の腕を模したもの」と言うよりも「物を持ち上げるような機械を作ろうと設計したもの」であり、アームの折り曲げは、機能的に必要だからその様に設計したのであり、人間の関節をヒントにして真似たのではない。
ものを持ち上げる機能の普遍的な仕組みが、人間に腕にも、クレーンにも反映されているということだ。
 
通信ネットワークの分岐点に設置されるルータにしても、通信状況によりダイナミックにルート変更をおこなう機能が、ルータ同士の情報交換により実現しており、やっていることは単純なので知能には見えないが、「ネットワークが自分でルートを考えている」と言おうと思えば言える。
結局、「ルートの分岐点の調整がダイナミックに行える階層的なネットワーク」というのは普遍的なものであり、脳の構造も、通信ネットワークのルーティングも、最適解を求めるコンピュータプログラムの構造も、同じ様な形式になってしまうのだ。
 
だから、「人間の脳を模して」を強調しすぎると、まったくの誤解を生じる。
 
私から見ると、一つのプログラミング技術であるだけのことがわかる。
そして、そこには、脳の仕組みなどはまったくなく、出来上がったネットワーク構造の働きを十分に活かして、データを蓄積しながら統計学の手法によりネットワークの分岐点の適切な値を評価して導き出して動作させているのであり、うまく動いているのは、統計学、回帰分析の成果であり、パターン認識という分野の成果であり、そして、大量のデータとべらぼうなコンピュータの使用時間の成果である。脳の生体機能は一切関係してない。
 
ニューラルネットワーク云々というのは、深層学習を説明するときの枕詞になってしまっており、専門家は、説明の前置きに、この一言を加えるものだと思い込んでいるのだ。解説を行う場合に、人間に置き換える発想をするのが癖になってしまっていて、それが世間の習慣になっているのだ。
 
「深層学習」という言葉の「深層」の意味は、互いに関連をもつ点(要素)を繋げばネットワークになり、それを機能的にしようとすれば階層構造になるし、高度な動作をさせようとすればレベル構造の階層が深くなり、ごく自然になるべくしてなった構造である。
 
「学習」は、データを繰り返して処理をしながら、分岐点の各要素の値を最適に近づけるように徐々に調整を行う様子を指した言葉である。故に「深く考える」という意味はない。
 
「神経細胞の繋がり方と、その中を情報が流れることにより何が行われるか」を例にして説明するよりも、私ならば、「ネジ止め組み立て家具のネジの締め加減による各位置のネジ間の影響のしかたによる調整のコツ」をイメージして、「何をやろうとしているかという意味」を説明する。脳の仕組みは関係ないからだ。
いうならば「ネジ止ネットワーク」であり、「板の四隅をネジ止めする場合は、対角線の順番に、一揆に締めると歪むので徐々に行う」という注意事項のことだ。
各ポジションが互いに影響しあっているので、締める強さのバランスが狂って歪んでしまわないように、締める強さのをどのくらいにすべきかを探る「微妙な調整を行なわせるためのメカニズムの構築」をしようとしているのだ。
 
私の考えでは、量子アニーリング(次に説明)のような調整や、ネジ止め家具の調整をプログラムで実現したものが「深層学習」だと思う。調整を、量子のような自然現象に任せられないので、その方法を人間が設計し、プログラムが、探りながら、繰り返しながら微調整を行っているのであり、その最適調整方法を求める技法が様々研究されているところなのだ。
 
「深層学習(ディープラーニング)」は、見ていると、理屈はわかっていて、プログラムが大量のデータを分類してカテゴリ分けして(方法により「教師付き」「教師なし」などと人間っぽく言う)、それを繰り返すことにより、徐々に正解率を上げているだけと解っていても、実に不思議に見えるのである。これなら、人工知能と言われれば、そんな感じに見える。
 
しかし、そもそも、「人工知能」というものは、存在しない。
「深層学習」というプログラミング技法が、様々な成果を上げているのである。それが人工知能に見えるのでそう呼ぶならかまわないのだが、今どき自動販売機を人工知能と呼ぶ人がいないように、そう思われなくなったら呼ばれなくなるような、実質のない名称なのだ。
 
■テレビ番組から3本
 
【1】2014年 NHK「サイエンスZERO」「ついに出た!?夢の”量子コンピュータ”」 出演「西森秀稔」「坂公恭」
 
人工知能の関連で、注目されているものに、量子コンピュータがある。それを取り上げた番組である。
量子コンピュータと言えば、普通は「量子ゲート方式(プログラムによる汎用処理を行うもの)」を指すが、今現在実現している「D-Wave」社のものは、特殊な「量子アニーリング方式」(解く問題に合わせて回路を構築するので汎用性はない)である。そして、「アニーリング(焼きなまし)」という言葉の説明に、金属の結晶を可視化する研究をしている学者に話をさせているデタラメさについて、呆れたのでここで述べる。
 
「量子アニーリング方式」の量子コンピュータは、扱っているのはビットなので、その意味ではデジタルであるが、考え方はアナログコンピュータである。
すなわち、物理現象、この場合は量子現象を起こし、その結果を得ることを計算とみなしたコンピュータなのである。
 
アナログコンピュータは古くからある方法であり、私も何十年も前に「微分解析機」をいじったことがある。電子回路が微分問題を解くのである。
例えば、凹凸をつけた斜面にビー玉を転がし、その結果から、なにかしらの問題の答えを得るならば、それは重力現象を使用したアナログコンピュータである。
今回、番組で解説していたのは、「四色問題」を解くための、量子ビットを並べて結合した回路であった。
 
アニーリング(焼きなまし)というのは、原子の並びが乱れて不安定になっている金属に熱を加え、不安定な状態を解消し、安定した状態に戻すものである。
「原子の並び」などと高度な理論に基づいている印象を与えるが、要するに、エネルギーの高い不安定な状態の個所を、エネルギーの低いところに移ろうとする自然現象を利用して安定させるということであり、私なら、「組み立て家具」のネジの締め具合を原因とする歪み発生の「一旦緩めて、その後に揺らしながらの歪み解消技術」と言うであろう。
どのネジを緩めてどのネジをどれだけ締めるのかを判断しなくても、揺らしているうちに自然に調整されるのだ。
 
番組では、量子現象の安定化を利用したものであることを説明しようと思ったのだろうが、熱による原子の安定だろうが、力学によるネジの締まり具合の安定だろうが、自然の調整力を利用したということである。山盛りの砂が振動で崩れて平らになるのは、位置エネルギーの低いところへ移ろうとする物理作用によるもので、これと同じだ(と思う……)。
わざわざ、金属結晶に注目する理由は何もないのに、金属結晶の学者の解説をもってきては、原子の理論が役に立っていると思ってしまうだろう。
 
イメージの助けを借りてその本質を表現するのに「アニーリング」という言葉を使うのはいいと思うが、単なる思いつきで選んだ言葉であっても「適切なイメージを描ける」からいいのであって、金属結晶の専門家を出演させるなど、その分野と「深い関連がある」ような誤解を招いてはいけない。何の関係もないのだ!
 
もし、アニーリング(焼きなまし)ではなく、家具のネジ止め調整を思いついていたならば、「名古屋大学」の坂公恭教授でなく、「ニトリ」か「イケア」の組み立てサービス担当者が出演していたに違いない。
 
この番組は、私は説明を大まかではあるが理解できたが、それは知識の下地があったからであり、そうでない視聴者は絶対にわからなかったと思う。まあ、説明の断片から、なんかしらのイメージや雰囲気を得て、これから、関連することがらに出くわした場合に、何かしらのヒントにはなるかもしれないが、「熱の作用を利用したコンピュータ」と理解した人だっているのではないか?
 
【2】2016年 NHK「サイエンスZERO」「人工知能の大革命!ディープラーニング」 出演「松尾豊」
 
「人間の脳を模倣したディープラーニング」ということで、ナレーションが「人間の脳の神経細胞は、関連のあるニューロン同士の結びつきが強化されるような動作をしている」と説明し、「ディープラーニングはこのニューロンのネットワークを人工的に再現したものです」と言っている。
いつもの「定番の説明」だなと思いながら見ていたが、パターンを認識するためのディープラーニングの仕組みが、解りやすい図と説明で、丁寧に紹介されていた。
 
感想を言えば、ディープラーニングは、多くの要素の階層構造の繋がりであり、その繋がり方の調整がパラメータでできるようになっており、そのような構造は、何のモデルがなくても、自然に出来上がっただろうと思う。
 
【3】2017年 NHK「人間ってナンだ?超AI入門」 出演「松尾豊」
 
「ディープラーニング、それは人間の脳の構造を模造したものです。人間の脳は~」と「定番の説明」が始まった。例えば図形を、人間の脳がどうやって認識するか、という説明をしているのだが、その説明を聞いているうちに、まてよ、それは脳の説明ではなく、ニューロンモデルによるディープラーニングの動作説明ではないの?と思えてしかたがないのだが?
 
生体の脳の神経細胞の層構造が高度な情報処理を実現する仕組みが、そこまで細かく解明されているの!とびっくりする。まさかとは思うが「ディープラーニングは人間の脳の構造を模造したものです」などと解説しているうちに、「人間の脳はディープラーニングのメカニズムを模造したものです」などと混同しているのではないだろうなあ、と心配になる。
 
続けて聞いているうちに、「実はここにディープラーニングの秘密があります」と言っている!なにっ!いつのまにかディープラーニングの説明になっており、やっぱり人間の脳の説明と混同しているじゃないか!
要するに、「ディープラーニングは人間の脳の構造を模造したものです」などとデタラメを言っているうちに、「人間の脳はディープラーニングのメカニズムと同じにできている」と錯覚してしまい、解説が混乱して、脳の説明とディープラーニングの説明は同じでいいと思ってしまって、「人間の脳は~」と始めた説明であったことを忘れてしまっているのだ!
 
■書籍から3冊
 
【1】大関真之「機械学習入門」
 
「脳の情報処理機構」というコラムで、「脳の内部では、神経回路がシナプスの結合により網目のようにネットワーク構築されており、そのネットワークに電気が流れて、情報を処理するコンピュータのようになっているということが知られています。その脳の情報処理機構を理解するために考えられてきた人工的なモデルが、ニューラルネットワークです」と「定番の説明」がある。
そして「学習の結果、シナプスのつなぎ替えや結合の強度を実際に変えていることが実験によって明らかとなったため、多層のニューラルネットワークは脳を模しているだろうと考えられています」とある。
 
「実験によって明らかとなった」などと言うと、「ニューラルネットワークは間違いなく人工知能であると証明された」と受け止める人もいるかしれないが、そもそもが、部分的に表現されただけの大雑把なモデルが、重要なポイントに間違えはなかったとわかっても、「方向は間違っておらず、見当外れではなかった」という(だけの)ことだ。
 
内容は、先生と生徒の会話で書かれていて、入門者向けで解りやすく、参考文献も難易度をガイトしてあり、とても参考になった。
 
【2】清水亮「はじめての深層学習プログラミング」
 
「Ubuntu 14.04LST」のOS環境で、「TensorFlow」「Chainer」「Deel」等のツールを使って「深層学習」を学ぶための書籍である。
 
「生物の神経細胞は、ニューロンと呼ばれる細胞が互いにシナプスという線でつながっていることで、いろいろなことを学習したり考えたりしていると言われています。これと全く同じ構造をコンピュータで再現すれば、コンピュータも生物のように何かを感じ取ったり、物事を考えられるようになったりするのではないか、ということで創られたのが人工ニューラルネットワークです」と、これまた「定番の説明」があり、生体の神経細胞の図がある。
 
そして、終わりの方に、「人工知能と生体知能の類似性と違い」という章があるのだが、そもそもまったく違うからそんなものを比較してもなあ……と思う。
そこに書いてあることも、「全く同じプログラムで全く同じデータを学習させても、”彼ら”が獲得する表現はそれぞれのAIで異なることです。初期状態が乱数で始まっているからです。つまりこれはAIに個性があることを意味します」などとある。
意図的に異なるようにしておいて、個々に異なるので個性があると結論づけて、それに何の意味があるのだろうか?
 
例えば、「金太郎飴の顔は切り口によってバラバラである。それはまさしく人間の顔と類似性があるということであり、金太郎飴には個性があるということである」と言っても、それがどうかしたのか?と思う。
 
【3】西森秀稔・大関真之「量子コンピュータが人工知能を加速する」
 
「定番の説明」の「大脳には数百億個の神経細胞があり(略)これをモデルにしたシステムがニューラルネットワークである」で煽っておいて、後ろでは、「人工知能が自分の意思を持つようになるまでには、永遠に近いほどの時間がかかる」「特定のタスクを人間以上にうまくこなす人工知能と、人間の脳のように何でもこなす『汎用人工知能』の間には、大きなギャップがあるのだ」と、読者に誤解を与えないように、冷静に説明している。しかし、最初に誤解を与えるような説明をしているのは自分であることを忘れているのだろうか?
 
「そこに知能が芽生えたとはとうてい思えない」とか、「『アルファ碁』の成功も、明確なルールが決められたゲームの枠組み中で、ひたすらコンピュータ同士が囲碁を打ち、最適な戦略を探し求めるというある種の、”修行”によって達成できたものである」とか、「コンピュータが必要とする訓練の量はまだまだ途方もなく多いのである」とあり、「人間とは、ほど遠い」という説明を一所懸命しているのにもかかわらず、なぜそんなところで「修行」などと擬人化した言葉を使用するのだ?
 
「膨大な時間を使用して経験データの蓄積を行った結果である」と言わずに、「修行の結果である」というように、人間に置き換えた発想をするのが癖になってしまっているのだ、この業界の人間は!!

2017年5月20日 (土)

そんなことを真面目に議論してるのか?心の自由を理解してない? 「酒を飲んだ勢いであり、本気でないものは処罰されない」「テロ等準備罪」

今日の産経新聞の記事で、「テロ等準備罪」について解説してあり、「国会での議論などから」例を挙げていて、「居酒屋で、気にくわない上司を殺してしまおうと盛り上がっても処罰されない」とのこと。
 
まあ、「本気でないなら、準備行為をしないだろう」という理屈なのだろうが、それが間違っているのだ!
本気でなくても、準備行為をする場合だってあるし(その気はなくても形だけ)、本気かどうかは本人の心の中のことであって、外からはわからないし、心は自由なのだ。人の心には踏み入れないのだ!
 
だから、「準備行為を見て、心の中を推測して、反社会的で本気ならば処罰」しよう、とするならば、「テロ等準備罪」はダメなのだ。それが本気かどうか、人の心は確かめようがないのだ。
だから「共謀罪」から「テロ等準備罪」にかえても、同じことなのだ。
 
しかし、そうは言っても、まあ、行為から推測せざるを得ない場合もあるだろう。
 
もちろん、社会に恐怖をあたえるものは、取り締まってほしいと思う。しかし、それと同時に権力が人の心に立ち入って取り締まるという社会はごめんということなのだ。
矛盾しているが、そういうことなのだ。
 
このように、いろいろとややこしい状況が潜んでいて、そこらへんが気になる点ではあり、居酒屋での上司の悪口は冗談なのでOKかどうか、キノコ狩りはどうか、山へ芝刈りなどの森林への立ち入りなどは、解りやすくするために極端な例を挙げているということはわかるが、そんな具体的なところばかりを突いていては、「人の行為を見て、心の中を推測する」という根本的なことが問題であることを忘れてしまうのではないのか?「芝刈りであり悪意はない、OK」ということでも、その精神がダメということを理解しているのか?

2017年5月15日 (月)

本の表紙を書籍の情報提供に使えるかを、自分の目で見て確認しているのだろうか?「書誌」をわかっているのか? ある電子書籍ストアのリニューアル

5年前から本を電子書籍に切り替えて、その快適さに、もう紙の書籍には戻れない。
ところが、先日、購入先の電子書籍ストアがリニューアルを行い、その異常さに呆れかえっているところである。
 
「リニューアルにより、大幅に利便性が向上し、今まで以上にご利用いただきやすい使い勝手の良い書店として生まれ変わります」とあるのに、どんな本か不明の表紙の一覧が「トップページ」に表示され、しかたなくクリックして内容を確認しながら、「これから、ずっとこうなの?」と途方に暮れているのだが、どういうこっちゃ?
 
まず、「トップページ」を開くと、「新着」「人気」「おすすめ」などの書籍が表示され、カラフルな表紙アイコンが並んだ画面は、華やかで目を引く。しかし、それらは全て本の表紙のみであり、書籍情報が一切ないのである!どんな本なのか分からないのである!
 
表紙を見ればどんな本か分かると思うかもしれないが、表示される表紙の大きさは、私の23インチの大型ディスプレイだと5×4㎝なので、アイコンとしてはかなり大きいが、元の大きさを20×14㎝とすると14分の1に縮小されているのである。もっと小さいディスプレイだとどうなるのであろうか?
そして、まず知りたい情報は「著者」と「書名」である。この大きさの表紙からこれらの情報が読み取れると思うのだろうか?いや、思う、思わないではなく、実際に見ているのだろうか?以下、私の所有している書籍も含めて例(5×4㎝)を挙げる。
 
堂場瞬一「犬の報酬」は、「書名」「著者」をバランスよく並べた装丁(書籍デザイン)で、文字も大きく、字体も普通であり、このような標準的な装丁ならば問題なく読めるのだが、このようなもの以外に、装丁家は、様々な工夫をこらした凝ったデザインを考えるのだ。
 
ケン・リュウ「紙の動物園」は、「書名」を大きな文字で縦に一文字ずつ左右にずらしてデコボコに配置してあるが、明瞭に読める。「著者」は書名の100分の1の大きさの文字であり、読めるわけない。
 
山崎ナオコーラ「指先からソーダ」は、隅になんとか読める限界の大きさで「著者」と「書名」を、「同じ大きさ」「同じ字体」「同じ色」で並べている。著者を知らないと「山崎ナオコーラ 指先からソーダ」という飲み物に関する本?と思う人もいるかもしれない。
 
笙野頼子「増殖商店街」は、文字の大きさは、読める限界よりも大きいのだが、緑の背景に、青の「書名」は立体的なデザインの書体のためにぼやけてしまい、「著者」は黄色で、イラストの黄色が側にあるので見にくい。そして目をこらして文字を見つめると、なんと、文字が「90度回転」した状態で、首をひねらないと読めない向きなのだ。
 
呉智英「吉本隆明という『共同幻想』」は、「書名」をレンズを通したようにゆがめているデザインで笑ってしまうが(「幻想」にかけてる?)、文字が大きいので明瞭に読める。「著者」は普通の活字体で問題なく読める。
 
星新一「きまぐれ星のメモ」は、五角形の星が襷(たすき)をかけた絵であり、たすきに手書きの文字で「書名」が書いてある。たすきに書いた文字なので、端っこの「きま」は小さくなって読めない。絵のすぐ側にある「著者」は小さすぎて読めないと思ったのだが、9×6㎝に拡大すると「角川文庫」とあった。「出版社」が「書名」と並んで表紙のど真ん中にあると思わなかったので、著者名と思い込んでしまった。「著者」は、たすきの先に赤色の上に黒の文字で書いてあったのだが、見にくくて気づかなかった。
 
筒井康隆「創作の極意と掟」は、丸めた巻物の絵に手書きの文字で「創作の極意と」と書いてあり(「極意」だから巻物?)、その横におもりの絵があり「掟」と書いてあり、両方が並んでいる。そのような状況だと把握できるならば読める。状況が把握できなければ読めない。
 
これらを見ていると、装丁家は、素晴らしい感覚で、本好きを愉しませていることがわかる。
しかし、今はデザインの話ではなく、書籍情報の話をしているのだ。
 
紙の書籍の場合、本を開かなくても「著者」「書名」「出版社」「価格」は表紙(表裏)のどこかに必ず載っている基本中の基本の情報である。
それが見たいのであり、せめて「読める大きさの文字」「普通に読める字体」「普通の配置」で「著者」と「書名」を知りたいのだ。
 
気づいたのは、中央の大部分を図で占め、隅っこに、こぢんまりと「著者」と「書名」を目立たなく配置するデザインが結構あるということであり、20×14㎝の書籍ならば字が小さくても問題なく読めるだろうが、14分の1のアイコンにしてしまうと絶対に読めない。
 
上記の書籍以外では、
かなり読みくい
森博嗣「すべてがFになる」
松本清張「日本の黒い霧」
歌野晶午「葉桜の季節に君を想うということ」
 
絶対に読めない
町田康「人間小唄」
ヘレン・フィールディング「ブリジット・ジョーンズの日記」
ヒガアロハ「しろくまカフェ」
大澤真幸「<世界史>の哲学 古代篇」
三浦しをん「まほろ駅前多田便利軒」
ロバート・A・ハインライン「月は無慈悲な夜の女王」
奥田英朗「町長選挙」
島田荘司「占星術殺人事件」
を挙げておく。
 
「トップページ」に表示されていた40冊の書籍の内「著者」が読み取れるのは14冊であった(ざっと見です)。65%は読み取れないので、書籍情報を得るためにはクリックして開かなければならない。
この「トップページ」は書籍情報を提供するのが目的ではなく、画面を飾って客を惹きつけるのが目的としか思えない。要するに、どんな書籍なのかが不明の状態で表示されているものが多数あるのだ。
 
次に、本を捜す方法だが
(1)書店の店頭でに平積みされた本の表紙や帯を見ながら、興味を惹かれたものを手に取って中身を見る。
(2)入手したい本の著者名、書名、出版社は何十冊、何百冊と頭に入っており、神保町を駆け回って、多くの書店に飛び込み、背表紙を素早く見渡して、目的の本があるか捜す。
と、まあ人により様々であろう。
 
これは電子書籍ストアでも同じであり、両方の客層に対応しているだろうと思っていたのだが、今回のリニューアルでは、上記(2)の方法には対応してないことがわかり、唖然としている。
「興味があるならばクリックして開けばいいではないか」ということになっているようだが、そもそもどんな本だか分からないので「興味があるか、ないか」もないのだ。開いてみないと、どんな本か分からないのだ。
 
もしかすると、このサイトを設計した人は「表紙を見れば、本の内容は分かる」と頭で決め込んで、実際の画面に本の表紙が表示された状態を見ていないのでは?と疑ったのだが、まあ、そんなことはありえないだろう。
 
しかし、「書名」はともかく「著者」に関していえば、半分以上が判読できないので、どうしてクリックしないとどんな本か分からないものを並べて展示しているのか、こんな意味不明のことをしているのか分からない。
 
「トップページ」以外の「新着」「検索結果」のページでは、表紙以外に書籍情報が表示される。しかし、「書名」は黒のゴチック体の太字で、「価格」は赤で目立つようにしてあるのに、「著者」は半分の大きさの薄いグレーなので、白の背景では、とても見にくい。「書名」と「価格」の邪魔をしないように意図的に目立たなくしたとしか思えない。書籍にとって著者がどれほど重要かが分かってないのだろうか?いや、まさか!(「あとで買う」のページでは4分の3の大きさの黒で普通に読める)
「新刊リスト」は表紙と「書名」「価格」のみであり、「著者」のない書籍情報を提供する感覚が、私には理解できない。
 
ある種のノウハウ、ガイド本のようなものでは、著者名を知る必要がないものもある。
もしかして、文芸、評論、学術の分野のように「著者」がないと始まらないもの(「旅愁」「経済発展の理論」等)が常に頭にある人と、どちらかというと「書名」で書籍を特定できるので(「こちら葛飾区亀有公園前派出所」「のだめカンタービレ」等)それでかまわないという分野を見ている人の違いでもあるのだろうか?
 
「書名」「著者」「価格」が表示されているページでも主体は表紙であり、書名が長いものは折り返し改行されるのだ。「書名」を改行して表示するなど、普通はそんな画面設計はしないだろう。
改行しなければならないような本の配置をしているのは、「表紙を見せる」ことを「書籍情報の提供よりも大切」にしているからであり、サイト全体に表紙が広がるように並べて、画面を派手に華々しく飾り立ようとしているからではないのか?
 
装丁家の努力のおかげで、見ているだけで楽しい画面にはなっているが、サイト閲覧者からは「購入するための情報」がどう見えているのか、サイト作成者たちは思い至らないのだろうか?
 
この電子書籍ストアの代表者が、今回のリニューアルについて、その思いを語っているサイトがあったのだが、そこに「ネット上の電子書籍ストアならではの機能強化、プロモーション手段の開発、そしてオリジナルコンテンツの創出を軸に、”本好き集団によるこだわりの深掘り”が始まります!」とある。
 
「書名」と「価格」のみで「著者」の情報がない「新刊リスト」を提供するような著者を気にしない”本好き集団”とは何なんだ?と思うが、「出版社」「発行年」も書籍を特定するのに必要であることを知らず、「書誌」というものを知らない、新刊コミック愛好者の集まりとは決して思わない。しかし、私としては、「こだわりの深掘り」はいらないので、「浅くていいから、普通のことを当たり前に」やってほしい。

2017年5月14日 (日)

私は3年前に警告したが…… 東京オリンピック 周防正行監督「なんというものを誘致してしまったのでしょうか」 「小池知事、東京五輪の都以外の仮設施設の整備費用を都が全額負担」

昨日、「小池都知事が東京五輪の東京以外の仮設施設にかかる費用500億円を負担すると表明し、開催にかかる費用残りの9000億円は誰が支払うのかという問題が片付いていない」とのニュースをやっていて、コメンテータとして出演していた周防正行監督が「なんというものを誘致してしまったのでしょうか」というようなことを言っていた。

東京オリンピックの誘致は、もちろん大きな喜びや日本経済への恩恵も多いだろうが、負担も大きく、不安も大きいはずだが、誰もそんなことを言う人はいなかった。
今になって、初めて周防監督がそのような言葉を発したのを聴いたが、どうしてもっと早い時期に誰か言ってくれなかったのか!

私は、世間が「お・も・て・な・し」などとやっている時、2013年9月7日にこのブログにも書き、首相官邸ホームページ「ご意見募集コーナー」にも、「日本は大変な傷を負っているのですから、東京オリンピックを開催するなどという世界に対して責任を負うような危険な事は避けるべきです。日程がぎりぎりですが、日本が開催国に決定しないように大至急手を打つべきです!」と書き送った。「ご意見等を受領し、拝見しました」の返事も受け取った。

もう手遅れだろうが、莫大な費用負担が問題になり、責任者たちが不満を言い合っているのを聞くと、「そんなことは3年前に予測できたことだろう!」と言いたくなる。

2017年5月 5日 (金)

「ゴールデンウィークの昼間に乾杯」、それがどうかしましたか? 日本テレビ「news every.」

今日の日本テレビ「news every.」で、若いサラリーマン風のグループが、まだ明るい昼間から、ビールで乾杯している様子を映して、「ゴールデンウィークの昼間に乾杯」とわざわざ画面に表示していたのは、それを強調したい(言いたい)からだろう。しかし、おかしいと思わないのか?
 
「平日の昼間から飲んで!」(決まり文句)とチクリと非難を込めたフレーズはよくあるが、それは「平日の昼間」という、普通の仕事人だと不可能な時間帯であるから意味が成り立つ言葉である。
 
それをそのまま流用して「ゴールデンウィークの昼間から飲んで!」としたら意味が消えてしまうのに、何のために「ゴールデンウィークの昼間に乾杯」と画面に入れたのか?
「休日でもないのに昼間から乾杯」ならわかるが、今日は休日である。。
 
2014/11/20の私のブログ「全財産の意味なのか?」でも書いたが、誰かが逮捕された時に「所持金はXX円でした」と、たとえ金持ちであってもコメントするのと同じで、何も考えずに、決まり文句をいれるものだと思ってしまって、決まり文句にもならないのに「ゴールデンウィークの昼間に乾杯」と入れたのか?

2017年4月27日 (木)

「良かった」の意味を明確にしてほしいが? 「あなたも『東北で良かった』と思っていませんか」 産経新聞第一面の署名記事 発言の一部を切り取って報道していることについての弁明は?

今日の産経新聞第一面に、「今村発言、東京の本音ではありませんか?」とのタイトルで、東北特派員 伊藤寿行の署名記事が大きく載っていた。
 
記事には「この国は東京が痛い目に遭わないと目を覚まさない。(略)被災地以外の国民の本音を映し出している」とあり、最後に「東京の人に聞きたい。あなたも「東北で良かった」と思っていませんか」と結ばれている。
 
そこで、私は、東京人としてこの記事に回答します。
 
まず「東北で良かった」の「良かった」の意味ですが、
(1)「自分はひどい目にあわずに済んで嬉しい!」(*⌒▽⌒*)という感情
(2)被災結果の「良い」「悪い」の評価・判断
のどちらなのでしょうか?この区別がついているのでしょうか?
 
私の回答は、
(1)の意味ならば、「東北は自分と関係ないから良かった」とは思いません。特に原発被害、放射能汚染、廃炉処理ですが、震災以後、私の心にはイヤーなしこりが出来てしまい、「なんということをしてしまったのだ!」と、いつもそれが頭をもたげます。
 
(2)の意味ならば、「東北で良かった」と思います(原発被害は除外)。東京であったら、どんなことになっていたのだろうか?復興できただろうか?東京であった場合と比較するならば、「東北で良かった」という結論は、東京人だけでなく、全国の人、東北の人でもそう思うのでは?私が東北で被災したとしても、やはりそう考えるだろうと思います。
「東北でもなく、東京でもなく、どこにも災害がおこらなければ良かった」という、現実に直面することを避けた無意味な回答をする人でないならば、「思っていませんか?」と問われれば「東京が良かったのか、東北が良かったのか」何かしらの見方を表明せざるを得ないでしょう。
 
客観的に評価して発言する必要のある場面に臨む人(今回の今村大臣のように)はどうすればいいのでしょうか?
たとえば、どんな災害においても被災者がいた場合には、「一部の被害で食い止められたから良かった。被害が全体に広がっていたら大変なことになっていた」という見方は、言ってはいけない禁句であり「本音」と非難されてしまうのでしょうか?
 
回答は以上です。
 
記事には「石原慎太郎元東京都知事の『震災は天罰』発言と似ている。『天罰を受けたのがなぜ石原氏でなく、東北の人なのか』という問いに答えがなく、被災者は東北蔑視の臭いをかぎ取った」とあるのだがこれは何だ?
「震災は天罰」というのを、「東北地方の人に天罰が下った」と理解しているのか?!
「天罰を受けたのはアメリカ人でなく、日本人である」ということであり、「日本人の全てに天罰が下った」という意味で石原氏は言ったことを理解できなかったのか?(まあ、直接の被害者は東北の人なのでそう理解してしまったのだろうが、想像力がない人は受け止め方が狭いので話しが通じないものだ)
 
昨日の産経新聞第一面のトップには、「震災『東北で良かった』」と今村復興相の言葉が大きな活字で引用されていた。
今村大臣は(被害の大きさを説明した後)「これがまだ東北でですね、あっちの方だったから良かったのでしょう。これがもっと首都圏に近かったりすると、莫大な甚大な被害があったと思っています」と言っているのであり、「比較して、”良”と言える」ということであり、「良かったー!嬉しい!」(*⌒▽⌒*)ということではない。
それを「東北で良かった」と一言に切り取り、大見出しで報道(記事内では発言の詳細は伝えている)するのは、印象を誘導しようとする悪意ではないのか?
 
今日の「産経抄」には、「発言の一部を切り取って批判するとか、しないとかのレベルではない」とあるので、そのような指摘があることをわかっているようであるが、続けて首相の陳謝と怒りの大きさの話になり、「発言の切り取り」の弁明はせずに「切り取りがどうのこうのというレベルの問題ではない」と突き放したまま終わりにしているのはどういう事だ?
切り取りをすると意味が変わることをわかっていて、弁明できないので逃げているのか?

2017年4月26日 (水)

「良かった」は感情表現ではないのに、ねじ曲げて報道しているのでは? 暴言「東北で良かった」今村復興相辞任 フジテレビ「直撃ライブグッディ」 「ちきりん」

今村復興相辞任のニュースが駆け巡っているが、今村大臣を庇う発言は少ない(ほとんどない)。
 
しかしながら、今村復興大臣の(被害の大きさを説明した後)「これがまだ東北でですね、あっちの方だったから良かったのでしょう。これがもっと首都圏に近かったりすると、莫大な甚大な被害があったと思っています」を「東北で良かった」と簡略して報道するのは、印象を誘導しようとする悪意ではないのか?
 
今日の、フジテレビ「直撃ライブグッディ」では、司会のアナウンサー、政治評論家、出演のタレントたちが、寄ってたかってクソミソに言っている。
「心に思っているから出た言葉でしょう!」と非難し、今村大臣が「東北で良かったー!」(*⌒▽⌒*)「助かった!」と、「東京が災害に襲われるところを、東北が身代わりになってくれたと喜びの発言をした」と解釈しているような様子である。
被災者が「自分がもしそういう目にあったらどうする」と抗議している様子も映していた。
 
それらを見ていると、「多くの人たちが言っている通りなのだろう」と信じて、自分の頭で考えることをしない人だらけで、なさけない。
そもそも、分析力というものが欠けているので、人の言うことを信じるしかないのだろう。
 
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(2017/5/12)
報道番組では、今村大臣の発言を文字で画面に流しているものもあるが、それは、正しく発言を伝えようとしているのではなく、「良かった」の部分を文字の色を変えたり、字を大きくしたりするのが目的なのだ。
実際の発言は「あっちの方だったから良かったのでしょう」と言葉のしっぽに小声でサラッと言っているのを、「ホラホラ、ね!良かったと言ってるでしょ!」と悪印象を持つように誘導しているのだ。これが、報道番組のすることであろうか!
 
そして、そんな作為には影響されず「オリジナル発言を聞く限り、意味として『東北でよかった』なんて言ってないと思うけど……」(ちきりん)というしっかりした人もいれば、影響されて「東北でまだ良かったって、言ってますよ。ちゃんと聞いてます?」というような人もいる。
 
その人は続けて、「百歩譲ってそういう意味じゃなかったとしても、被災して辛い方々が聞いてどう思うか、そこに想いを馳せられない分別の無さが、問題と思いますが?」と述べているの読むと、「良かったとは言ってないとしても受け入れられない」という矛盾に陥っても、糾弾しようとする心情から抜け出せないようだ。
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今村大臣の「良かった」は、「喜び」の「感情表現」ではなく、「評価(比較の尺度)」の「良い悪い」を言っているのである。
「復興大臣なのだから東北の人の立場に立たなければいけない」という人がいるが、どうだろうか?復興大臣は客観的な見解を示してはいけない立場ということなのだろうか?
 
「被災地軽視」「東北差別「地方切り捨て」との批判があるが、「首都圏だったら、もっと大変なことになっていた」は事実である(原発被害は除外)。
そして、「もっと大変なことにならずに良かった」は、「比較の尺度」としての「良かった」であり、「比較して、”良”と言える」ということであり、「良かったー!」(*⌒▽⌒*)ではない。
それがいけないならば、「比較するということを禁止」するしかない。
「東北でもなく、首都圏でもなく、どこにも災害がおこらなければ良かった」では、評価を避けているだけある。
 
そこら辺を考えないまま、悪玉を追求する大衆心理に迎合する報道や、それに乗っかる人びと、「頭で被害を比較して評価した言葉」を「心に思っているから出た言葉でしょう!」と「人が身代わりになってくれたおかげで自分たちが不幸にならずに済んだ」と「ウッカリ本音が出た」と見なす女性タレントのような人たちが、自分の正義感、良心を満足させているだけである。

2017年4月24日 (月)

キレイかどうかよりも、城の価値は? 「岡山城がカラフルに」「原爆ドームのイルミネーション」「唐突」の意味

岡山城(烏城)が、5月7日までマスキングテープでのカラフな外壁装飾を行い、「きれい」「カワイイ」との評判らしいが、昨年暮れの原爆ドームのイルミネーションを思い出した。
 
原爆ドームにイルミネーションを点灯するのはきれいだからか?「きれいにしたい」のか?原爆ドームは何のために残しているのか?
そのままの姿を留めることを目的としているのだから、飾り付けをするのは間違っているだろう。きれいでいいと賛成する人もいるが、きれいかどうかという問題ではないという気がする。
 
岡山城の装飾は、気晴らしでいいのかもしれないし、カラスだっておしゃれをしたいだろうし、人それぞれの考え方だとは思うが、脳みそのどこかが緩んでいると思われないように気をつけた方がいいかもしれない。
 
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2016年12月6日のテレビ朝日「スーパーJチャンネル」で、原爆ドームにイルミネーションを点灯することについて、インタービューされた年配の男性は「唐突ですね」と反対の意を表していたが、唐突かもしれないが、それよりも、やっていることに奇異を感じるのであり、「唐突」かどうかではないと思う。

2017年4月10日 (月)

「ナルシスト」は間違いで「ナルシシスト」が正しい? 外国語の発音をカタカナ表記しておいて正しさを決められるのか? フジテレビ「フルタチさん」 「カタカナ言葉」「カタカナ語」

むかし、テレビのクイズ番組で司会の愛川欽也が、ピアノ曲「乙女の祈り」の作曲者の名前を出題して、解答者が「バダルジェフスカ」と答えた。
普段クラシック音楽を聴くことがないのであろう愛川欽也は、自分の手元にある正解に「バダジェフスカ」とあったので、解答者の答えは「ル」が余分であるから不正解、とした。
よく使われる「バダルジェフスカ」という表記を知っていた解答者は、自分の答えが不正解とされたことに目を見開いてビックリしていた。
愛川欽也は、外国語の発音をカタカナできちっと表現できるものだと思っていたのであろう。外国語が日本語に持ち込まれたらどうなるかを考えられない無教養な人だと呆れて見ていた覚えがある。
(もし、演劇人であり、外国の戯曲に触れているならば、外国人の名前は日本語では様々に表記されることはわかっていると思うのだが?)
 
昨日のフジテレビ「フルタチさん」で、『NHK日本語発音アクセント新辞典』が大きく改訂され、これはアナウンサーにとって大きな影響があることを紹介し、続けて「カタカナ言葉、正しいのはどっち」というクイズをアナウンサー相手にやっていたのだが、そこで出題されていた問題とその「正解」を見ていて疑問を感じた。
 
出題されていたのは固有名詞ではないのだが、例えば、「ナルシスト」は間違いで「ナルシシスト」が正しいとの説明がなされていた。
その理由は、綴りが「narcissist」であり、外来語は原語に忠実であろうという方針であるからというものであった。
 
しかし、そこで言っている「原語に忠実」というのは「原語のスペルに忠実」という意味であろう。スペルを「見て」「正解」とする根拠はあるのか?音で「聴いた」場合も、「ナルシスト」でなく「ナルシシスト」と聞こえるのであろうか?日本人の耳では、微妙な「…シシ…」の部分は聞こえないのではないだろうか?
この場合は音を優先すべきであり日本語にする場合は「ナルシスト」にするのが「正解」、とならないだろうか?
「ナルシスト」では「シ」が一つ足りないから不正解、では愛川欽也と一緒だ!
 
ほかにもいくつかクイズを出して、英語のスペルに従った発音を正解としていたのだが、「dachshund」だけは「ダックスフンド」ではなく「ダックスフント」が正解であり、その理由は、「原産国がドイツの犬種なのでドイツ語の発音に従う」とのことである。
しかし、その理屈で「ダックスフント」は本当に正解といえるのか?「ドイツ語の発音に従うのが正解」ならば、「ダァークスフゥントゥ」になってしまわないのか?
明治時代から、ドイツ語の発音に従おうとして「ゲーテ」とか「ギョエテ」とか言っているうちに、収まりがつかなくなってしまい、その混乱を皮肉られていたことを知らないのか?(斎藤緑雨)
 
以前にテレビ番組で、ある出演者が、「列車の英語での案内アナウンスで、日本の駅名なのに、それをことさら英語式で発音するのは嫌いです。駅名は日本語なのだから、普通に日本語で発音すればいい」と言っていた。
それは、例えば、「池袋」ならば平坦に「いけぶくろ」と発音すればいいのに、英語のアクセントで「イッケブックロ」と「イ」と「ブ」に力を込めることに文句を言っているのである。
 
しかし、この出演者の意見は間違いである。英語には平坦な「いけぶくろ」という発音はないのだ。
アナウンスは「英語」であるので、そこで使われる言葉は全て英語になってしまい、「池袋」は「イッケブックロ」に変わるのだ。
同様に、外国語だって日本語に入ってくれば、日本語に変わるのが当然なのだ。
 
日本語と外国語では発音が根本から違うのであり、外国語から日本語のカタカナ言葉に変換する場合に、どのように変換するかを決めるのに「原語に忠実」というのは要素の一つにはなるだろうが、それだけで決めるようなものではない。それよりも、日本人が聞きやすく発音しやすいというのが最も重要なことである。
 
それと、すでに定着している言葉の場合は、もっと適したものがあったとしても、そのままにしておくというのが混乱をおこさないために必要なことである。
どのようなカタカナ言葉に変えても、どっちみち原語とは異なっており、原語に近づいたつもりになっても、日本人がそう思っているだけである。
 
「フルタチさん」に出演している言語学者の金田一秀穂は「外国語は促音の後の濁音が多いが、日本人は苦手なので濁音を取ってしまう場合が多い(例.ビッグ→ビック)」と言っており、それならそれでいいではないか!それのどこが悪いのだ!
 
思考の浅い人たちが考え違いをして「正解」を決め、それを広めるという、ろくでもないことをしているという印象を抱いた。

2017年3月16日 (木)

面積寸法を測らないで家を購入する人がいるか? 「実際に、家を購入した後に駐車できないことに気づいた方もいらっしゃいます」 テレビ朝日「ハナタカ優越館日本人の3割しか知らないこと」

テレビ朝日「ハナタカ優越館日本人の3割しか知らないこと」で「失敗できない住居選び」について解説していたのだが、カースペースについて、軽自動車しか駐車できないスペースでも「カースペース有り」と表示されている場合があるので、注意が必要とのこと。
 
そして、不動産の専門家が「実際に、家を購入した後に駐車できないことに気づいた方もいらっしゃいます」と言っている。
 
家を購入する前に、自分の車の大きさと、カースペースの大きさを確認しない人がいるのか?
まあ、世の中にはそういう人もいるかもしれませんね。
 
「『カースペース有り』は、注意が必要」というのは、「広告の表示(広告を見る場合)についての注意」であって、「家を購入する場合(購入する時点)の注意」とは違うだろう。
 
「カースペース有り」の表示をそのまま信じて、寸法を確認しないまま家を購入する人はいないだろうから、「家を購入した後に駐車できないことに気づく」などは特殊過ぎると思うが、番組関係者は誰もそう思わなかったのだろうか?

«思わないが? 「誰だって、安倍総理が口利きに関与したと思う」「花田紀凱の週刊誌ウォッチング」「森友学園への国有地払い下げ」