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2018年5月15日 (火)

きれい事?タテマエ?「遺族の気持ちを思いはかれば、出頭するはずだ」 日本テレビ「news every」 「新潟市、小学生を殺害、線路上に遺棄」

新潟市西区で小学校2年生の大桃珠生さんが殺害され線路上に遺棄された事件の容疑者が逮捕され、日本テレビ「news every」では、近所に住む小林遼容疑者が、捕まるまでの一週間どう過ごしていたのかに注目して、藤井貴彦アナウンサーが、「遺族の気持ちを思いはかれば、出頭するはずだ。なぜそうしなかったのかが不思議だ」というようなことを言っていた。
 
それは、犯人が「遺族には気の毒なことをしたなあ。申し訳なかったなあ。自分は出頭して、そして遺族に詫びなければいけないだろうなあ……」と思うはずであり、それが普通だ、ということだが、「きれい事」というか、「タテマエ」というか、本気で言っているのだろうか?
 
藤井貴彦アナウンサーは、この容疑者を「普通の人」と思っているのだろうか?そして、「普通の人」ならこのような気持ちになるはずだ、と言っているのだろうか?
 
私には、小さな子供を殺してれ線路上に遺棄した人間が「普通の人」とは思えないので、「遺族の気持ちを思いはかれば、出頭するはずだ」とは思えないのだが……。
 
私には、「小さい子供を絞め殺してその遺体を列車に轢かせた男であっても、その遺族の気持ちを思いはかるはず」と考えることの方が不思議なので、藤井貴彦アナウンサーの思考が理解できないのだが、「形だけの良い子発言」、「道徳的に正しい考えをする私もそうだし、皆さんもそう感じますよね?」と賛同を得られそうな発言をすることは上手だが、人間の真実や、事実の究明についてはあまり考えない、「きれい事」「タテマエ発言」に感じるのだが、優秀なエリートアナウンサーであると思うので、そんなはずはないとも思えるし、じゃあ、やはり本気で言っていたのだろうか?

2018年5月 1日 (火)

胡散臭いが? 吉野源三郎「君たちはどう生きるか」 TBSテレビ「教えてもらう前と後」「池上彰の大絶賛本」 関川夏央「家族の昭和」

私は、子供のころから、読書の習慣があったので、吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」という本も、「良い本である」という評判を聞いて、読んだことがある。そして、その印象は、「正しい行い」「道徳心」「優等生」「良書」というようなものであり、私にとっては「つまらない話である」というものであり、「自分の読む部類の本ではない」という判断であった。
 
社会人になってから、岩波文庫で出ているのを知り、入手して読んだが、子供の頃には気づかなかった「上から目線の教養主義」「共産主義の正当性を言おうとしている、一時代前の古い思想の本」という点も読み取ることができ、昔読んだ時の「つまらない本」という印象は間違ってなかったことを再確認し、さらに「何か胡散臭いなあ」というものであった。
 
ところが最近、「漫画 君たちはどう生きるか」が200万部を超える大ベストセラーになっているとか、アニメーション監督の宮崎駿が次に「君たちはどう生きるか」という題名の新作を作成中とかの報道があり、何となく奇異な感じがしていた。
 
さらに、今日のTBSテレビ「教えてもらう前と後」で「池上彰の大絶賛本」ということで紹介されることを知り、「どういうこと?」と番組を見ることにした。
 
番組では、ドラマ仕立にして、友達が暴力を振るわれているのを、主人公のコペル君が勇気が出せず止めに入れなかった後悔を、どう悩み、どう解決するのかという話を紹介している(このエピソードは、岩波文庫版「君たちはどう生きるか」では全体の四分の一である)。
しかし、その内容では、どう見ても、小学校低学年とは言わないまでも、せいぜいもう少し上の学年向きの話であり、単純過ぎであり、道徳じみており、幼稚過ぎるであろう。
原作では、もっとさまざまなことを、小説らしく社会描写、人間描写を含めて、登場人物(主に「叔父さん」)の台詞により表現して伝えている(まあ、児童相手の説教が満載の内容である)。以下は、この小説の方の話をする。
 
そして、この小説の登場人物である、「叔父さん」の意見(即ち作者、吉野源三郎の意見)が胡散臭いのである。
この小説が出版された昭和十二年頃に流行した社会主義思想、社会正義を、子供向けに説明するような口調なのである。過酷な環境の下で、汗と埃にまみれて働く工場労働者がいることを教え、そういう人たちは教育も受けられず、そのために簡単な知識も持っていない下層階級であると説明される。そして、そういう人たちはインテリ層の人間に比べて、ずっと立派なのだと説明される。この時代の左翼思想の臭いがプンプンする。
 
浦川君に代表される、清く正しい生き方をしているのに不当に虐げられ見くだされ、貧しい生活を強いられる憐れで同情してやらなければならない不幸な人々。それは、教育がなく愚かで身なりも汚ない人々であり、それを教育のあるエリートである叔父さんやコペル君たちが味方になり救うことこそ社会正義である、というようなことが読み取れるように、というよりも、あからさまにダイレクトに書かれていて、今の時代にこんなものは通用しないだろう(まあ子供の頭脳なら洗脳されるかも)と思うのだが、なぜこのような本が「大絶賛」され、テレビ番組で紹介されるのか、不可解千万である。
 
関川夏央「家族の昭和」(新潮文庫)という本があり、そこに「君たちはどう生きるか」について書いてある個所がある。
そこに書いてあることは、私の感じた「上から目線の教養主義」「共産主義の正当性を言おうとしている、一時代前の古い思想」ということに加えて、私が見通せなかった、細かい分析がなされている。要約(と原作からの補強)すると、次の通りである。
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大衆を嫌悪しつつ持ち上げる叔父さんの口調は、資本主義社会は限界に達したと信じ、自分の「階級」を恥じ、自分の土地を小作人たちに譲った有島武郎を連想させる。そのもの言いには、山の手的環境と「知識人」という立場の特殊さが色濃く反映されている。そして、作中で「あの人々」と呼ばれる愚昧で恵まれぬ大衆を嫌悪しつつ持ち上げる不思議さ、気持ちの悪さからくる違和感がある。
 
作者である吉野源三郎の「大衆像」は、「狭いごみごみした商店街の、薄暗いじめじめした小さな店ばかり、軒の低い長屋づくりが並ぶところに、貧乏な浦川君の家はある。その狭い通りに、エプロンを掛けたままのおかみさんや、背中に子供をくくりつけた女の人が、ぞろぞろと歩いている間を、ゴム長靴の若い衆がくぐり抜けていき、汚い身なりの子供たちが飛び出してくる。ざわざわとした空気の中には、へんな臭いが漂っている」と表現される。
 
貧しき友である浦川君の生家である豆腐屋のおかみさんは、髪をくし巻きにした、肥ったおかみさんである。そして「ね、坊ちゃん、むさくるしいところですけど、たまにはこんなうちも見ておきなさいまし」とコペル君に言う。お父さんは、金策に出かけていていない。
大衆のたくましさを表す「肥ったおかみさん」や、大衆の行儀の悪さ、下品さを代表する「しつけがよくない、ずるそうな眼をした弟」などに、生活に追われ、下町に生きる人々に対する、インテリである作者のものの見方が現れている。それは、大衆への好意(畏れ)と嫌悪である。
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私も同様に感じ、コペル君に、生産関係、分業、消費などの言葉で社会構造を説き、経済学、社会学という学問であることを説明し、「この世の中に貧困というものがあるために、どれほど痛ましい出来事が生まれて来ているか。どんなに多くの人が不幸に沈んでいるか。また、どんなに根深い争いが人間同士の間に生じてきているか」と説明しているのを見ると、格差社会、不平等の問題を説いているマルクス主義の本、「資本論」の解説本を読んでいるような気分になる。
 
コペル君の友人である水谷君のお父さんは、方々の大会社や銀行の取締役、頭取とかの肩書きを持ち、財力があり、水谷君の部屋は、新館と呼ばれている別棟の中にあり、鉄筋コンクリートの建物であり、どの部屋にも十分に日光がはいるようにできていて、庭には芝生があり、芝生のはずれには、立派な助走路のついた正式の跳躍競技場も作ってあり、水谷君のお姉さんが練習に使っている。食事は本館の食堂で、高い天井からは豪奢な飾り電灯(シャンデリアであろう)がさがって、金色の壁には大きな油絵の額が掛けてある。食卓の上には見事な花が盛りあげてあり、真っ白なテーブル掛けの上には立派なナイフやフォーク、銀のさじがおいてある。そして水谷君のお母さんは、堀君(お父さんが政治家で、おじいさんが貴族院議員)と友達になることを奨めている。
そして、コペル君のもう一人の友人である、貧乏な豆腐屋の息子である浦川君の勉強部屋は、北向きの粗末な三畳の部屋で、曇りガラスがはまっていて、その上の方の透しからは鋼のような冬の青空がのぞいているが、風の唸り声が聞こえて、ガラス戸は絶えずガタガタと震えている。小さな机があり、そこに薄っぺらな座布団を敷いて、火鉢に差し出す浦川君の手には、霜やけがいっぱい出来ていて、大きなあか切れが口をあいている。弁当のおかずは毎日油揚であり、おまけに煮てない生のままであり、浦川君に近づくと油揚げの匂いがする。
 
まあ、よくここまで「金持ち」と「貧乏人」の対比を持ち込んだと感心するが、「搾取する資本家階級」と「搾取される労働者階級」の不当な社会の格差が存在することを読者に印象づけるための設定だということはわかるが、そこまで極端にしなくてもいいのでは……。

2018年4月26日 (木)

戸塚宏校長は自分が正しいことを知っており、自分にとって有利な論理から出ないのです フジテレビ「直撃!シンソウ坂上」「戸塚ヨットスクール」

フジテレビ「直撃!シンソウ坂上」で、かつての戸塚ヨットスクール事件を扱い、戸塚宏校長が出演して、昔のままの気炎を吐いていた。
 
司会の坂上忍や出演者たちが戸塚校長を非難しようとしても、まったく歯がたたない。
出演者からは「平和」とか「愛」とかの言葉が飛び出し、戸塚校長の餌食になっていた。
 
戸塚校長からは「マスゴミ」の言葉が飛び出し、「マスコミはゴミである」と明言されていたが、そういうことを言われるのは、世間やマスコミ、そして番組の討論、議論の能力のなさが理由であり、戸塚校長からバカ扱いされるのは当然である。
「体罰はいけない」という「正義の印籠」が通じないとみるや、「平和」「愛」という金ぴかの印籠を取り出し「これでどうだ!」と突きつければ相手は参ると思っている、その程度のことしかできない連中であると戸塚校長に見透かされていることがわかってないのだ。
 
昔から、戸塚校長への非難は「体罰はいけない」というものであり、それは世間で当然と思われていることである。
そして、「体罰はいけない」という正義に寄りかかり、それさえ言っておけば通ると思っている甘さを、戸塚校長に突かれているのである。
そして、戸塚校長は、その点を皆にわかるようにとことん説明することはせず、短く反論し、バカにする態度を示して議論を終わりにするのである。
 
では、どのように議論すればいいのか、「体罰はいけない」と思い込んでいる人に私が説明することにしよう。
 
まず、「”体罰”という短い一言で、何を言っているかは、人によってそれぞれ異なる」ということを理解してないということが一番の議論の欠陥である。
世間では「体罰は暴力である」と捉えて、結局「暴力はいけない」と言っているのだが、戸塚校長は「体罰は教育である」と明言している。そして、議論はそれ以上に進まない。
 
戸塚校長のいう「体罰は教育である」というのは、正しいとしなければならない。なぜならば、戸塚校長はそういう意味でいっているのであるから、それを外からあれこれ言うことはできないのである。
ところが、「体罰はいけない」と思い込んでいるので、相手に通じないのに「それは間違いである」としか反論できないのである。
 
戸塚校長は問題児に数多く接してきており、問題児はどのような人格、性格を持っているかを見る経験に富んでいるので自信がある。「相手を思いやって」というような、普通の子供を想定しているような相手は一発でバカにされ、議論の相手にしてもらえない。
 
戸塚校長の論理は簡単である。そして、世間がそれに反感を持つことを知っており、それを利用して議論を停滞させ深めない。それの堂々巡りで結局、世間が戸塚校長の論理、信念を理解することはない。そして、自分の得意な理論を思う存分振り回せる状況になり、戸塚校長の思うつぼである。
 
私は、「体罰はコミュニケーションである」と思っている。そして、言葉によるコミュニケーションが成り立たない場合は、それを使うしかないと理解している点は戸塚校長と同じであろう。なので、戸塚校長が言わんとしていることはよくわかる。
 
事故についての責任については、昔から、戸塚校長は完全に自分の責任であることを認めており、その責任を回避しようとする言葉を吐いたことはない。しかし、事故の責任追及の話になると、すぐに責任を認め、そして、すぐに議論を教育論に切り替え、その正しさの話になるのであるが、相手は話が切り替えられたことに気づかず、責任を回避されたように聞こえ、釈然としないのである。
 
戸塚校長は自分が完全に正しいと断言しているが、その通りである。それは、議論する内容は、自分が想定する範囲の話から一歩も出ないという姿勢なので、当然そうなるであろう。

2018年4月16日 (月)

正義を表向きに、罷免を勝ち取り、スクープとして得点を稼ぎたいのか? 「財務省の福田淳一事務次官 セクハラ疑惑」

「財務省の福田淳一事務次官にセクハラ疑惑が飛び出した」との報道がされ、その時の録音が公開されたが、「おっぱい触っていい?」「抱きしめていい?」「浮気しようね」をどのような場所で、またどのような場面や会話の中で言ったのか、その時の相手の反応の様子がどうだったのかが分からなければ、「嫌がらせて苦しませるのが目的の発言」であったのか、「女であることをからかい、嫌がる反応を引き出し、それを見て楽しむような、ホステス代わりにした」のであったのか、相手は女性記者であったとのことだが「相手の話をそらすのに話題として効果的だった」のか、いろいろあると考えられるので、一本調子の「言語道断、セクハラけしからん!」というような報道では、事実は何も伝わらないのでは?
 
セクハラを糾弾すべきなのは、立場が弱く、抵抗できないような女性社員に、立場の強い上司がいやがらせをするような場合ではないのか?今回の場合はどうなのか?
 
森友学園の話をしたい女性記者の質問をはぐらかし、その場の雰囲気を軽くしたい、「もっと楽しい話をしようよ!」というような、どうということのない会話に思えるが?
 
相手の記者は「やめて下さい」と言っているが、自分の取材をやめて、そこから離れるというようなことはしていない。取材対象の事務次官にくらいついている。
駆け引きが可能な状況なのであるなら、「セクハラになりますよ!」と強く牽制すれば、相手は引っ込むかもしれない。
特に弱い立場にいるわけではないのならば、それほど「セクハラけしからん!」というようなことにはならないのでは?(「言語道断」から「あまりよくない」まで幅があると思うが?)
 
真のジャーナリズムの精神を持って報道しているのだろうか?正義を表向きに、罷免を勝ち取り、スクープとして得点を稼ぐような、大衆からの支持を得ようとする姿勢になっていないか?
歩いている福田次官に大声で詰め寄る記者たちの、「悪は成敗してやる」「どうだ!反論できるならしてみろ!俺たちの方が強みがあるんだ」という雰囲気の品のない叫び声は聞いていられない。

2018年4月12日 (木)

「茶碗に一口分残しておかわりするのが和食のマナー」というのはウソです! テレビ朝日「ハナタカ!優越館」

テレビ朝日「日本人3割しか知らないこと くりぃむしちゅーのハナタカ!優越館」は、「へーそうだったのか」と思うようなものもあって、面白い番組だと思う。
しかし、「優越館」とあるだけあって、「こういうことを知っていると、通だと感心されます」というような内容がわりとあり、そう解説されると「なんか、くだらないなあ」と感じてしまう。
 
今日の番組でいうと、お寿司屋さんでカッコよく食事の終わりを伝える言葉は「巻物下さい」であり、お寿司屋さんでは昔からシメに使われる言葉だという。
そうすると、注文も終わりに近づいてきたことが相手に分かり、そういうことを知っていると、店の人に通だと思われるなどと解説していた。
 
しかし、「巻物下さい」は、巻物を食べたいから言うのである。食事の終わりを伝えるために言うわけではない。
寿司屋では、最後に腹を膨らませたくなる場合もあり、そういう時は値段も安めの巻物を頼むのは普通である。
以前にこの番組でやっていた、初めての寿司屋で、わからない時は「並を下さい」と頼んでみる、というのも、カウンター席を中心にしているようなわりと高級っぽい店(但し、テーブル席もあり並、上、特上がメニューにある程度の)であっても、私などは自然にやっていたことであり、そんなことは、誰でもする普通のことであろう。「通」とは関係ない話である。
 
しかし、この番組を見て「へーそうだったのか」と「通と思われるために」やる人がいるのではないか?
寿司屋で通と思われるために言うなど、くだらないと思うが?
 
別の話題で、高級な懐石料理を出すお店でおかわりする時の作法は、茶碗を空にして「おかわり」と叫ぶのではなく、茶碗に一口残して頼むものであり、一口分残しておけば、おかわりしてくれる(「残しておけば、してくれる」とは?頼まなくても?分からなかったことを言葉でうやむやにしてない?)という。
 
これも、なんだか違うなあ!
この番組で映して説明していたような店ならば、茶碗を空にして「おかわり下さい」と叫んでも、まったくかまわないはずだ。
ネットを見ると、一口残す理由として、「残すことによって満腹を表す」「日本人は出されたものを全部食べたりしません」などと書いてあるものもあるが、本当か?
私は、このマナーは子供の頃から知っており、理由を教わったことはないのだが、意味は感覚で理解していた。
根拠は私の経験だけであるが、本当のことをわかってない人が多いようなので解説する。
 
旅館や店で和食を囲むときに、側に人がついて食事中の世話(給仕)をしてくれる場合がある(特に旅館――今は共同の食事処でする場合もあり、部屋で食事できる程度のことが上等なサービスになっていることもあるが、給仕してくれる場合も「自分たちでやりますから」と遠慮したりもする)のである。また一般の家庭でも、女中さん(お手伝いさん)が食事中の世話をしてくれる場合もあるし、一時代前は主婦がその役目であったようだし、一番あるのが、客として招かれた家庭で食事を出された時に気を遣ってもらう場合であろう。その世話をしてくれる人は側にいて、各自の茶碗が空になると、「おかわりしましょう」と声をかけてくれるのである。であるから、空の茶碗を出して「おかわりして」などと言うと、世話をしてくれる人がうっかりして気づかなかったということになる。
しかし、実際は茶碗のご飯を食べ終えてから、自分からおかわりを要求する場合もあるので、その場合に一口ご飯が残っていれば、世話をしてくれる人が、空になったことに気づかなかったわけではないので(空になっていないので)、「空になったのに気づかなくてごめんなさい」と言わなくてすむようにしているのである。
 
であるから、給仕が側におらず、「おかわり自由ですのでお申しつけ下さい」というような店の場合は、茶碗を空にして「おかわり下さい」と叫ぶのはあたりまえであり、「一口残す」などは無意味であり、なんのマナー(気遣い)にもなっていないのである。
 
そして、どこかのブログに、「茶碗の底に一口分のご飯を残している状態は、おかわりをお願いしたいという合図になる」とあったが、その「合図」とは、どういう意味なのだ?
 
それは、「すみませーん、おかわり下さい」と呼びかけて気づいてもらうことなのか?
茶碗に一口分くらいご飯を残しておくのが、そのような合図になるのだろうか?どこかの店でやってみたらどうか?自分の茶碗に一口分残っているのを店で感知してくれるだろうか?どうやって感知するのだろうか?
やはり、チーンと鳴らすか、「すみませーん」と叫んだ方がいいのではないか?いや、やってみなくても、自分の頭で考えてみればわかるであろう。
 
それは、側で給仕している人に、「空なら食事の終わり」であり、「一口残っているならおかわり」である、ということを「言葉で説明する代わり」に茶碗の状態で表しているということなのか?
「”おかわり”と声をかけるのは恥ずかしいということもあり、わざわざ話しかける手間がなくなということも理由としてあり、一口分のご飯を残してある状態が合図になる」と書いてあるものがあった。
その通り「”おかわりして下さい”と声をかけるのは恥ずかしい」ということもあるので、給仕する人の方から「おかわりいかがですか?」と声をかけるのである。
だから、自分の方から声をかけて頼む場合は一口残すのであるが、声をかけずに「一口残してあるのを見て、おかわりしたいことを給仕側で察しろ」というのは失礼過ぎるだろう!
そんな合図よりも、「おかわり下さい」「もうお腹いっぱいです」と口で伝えた方がいいはずだ、「そんな合図をするはずない」と思わないだろうか?
 
「一口残す意味はなんだろう?」と考えて、わからなかった人が、「おかわりをお願いしたいという合図」とか「”つなぎ”という意味がある」「縁が切れないことを表わす」なら意味が合うだろうと勝手に解釈したり、「まだ食事は終わっていないという意味」(喫茶店で飲み物を飲み切らずにおいて、片付けられるのを防ぐのと同じか?)とか、「残すことによって満腹を表し、お替りを促されて、本来は満腹であるけれども、それに応じてお替りをする態を装う」(「満腹だけどあなたがおかわりしろと言うならそうします」という意味らしい――ベストアンサーに選ばれていた!!)などの思いつきのデタラメを言ったのが広まって、マナーの講師も、みんながそう言っているのだから間違いないだろうと、「おかしくないか?何か変では?」と疑問を持たずに説明をしているのだろう。
 
以下はネットで見かけた珍答(合図派が多いなあ!)
 
「ご飯を残して茶碗を差し出すことで『おかわりをお願いしたい』という合図になり、逆に、全部食べて茶碗の中を空っぽにして差し出すのは、『食事が終わりました』という合図になります」(これもベストアンサーに選ばれていた!!)というのもあったが、「茶碗を差し出す」なら空っぽでも「おかわり」だと分かるのでは?「空っぽの茶碗」を差し出して「食事が終わりました」と合図をしている人など、今まで一度も見たことないが……。
 
「『おかわり』と言えない方が、サインとしてしてただけ!自ら『おかわり』と言える方は、無礼なのでしちゃダメです」というのもあったが、そんなシャイな人用の合図だったか!
しかし、「そんなサインは無礼である」という正常な認識があることを示している。

2018年4月 5日 (木)

「緊急時なのに伝統を優先する愚かさ」と「現代に合わない古い伝統を改めない愚かさ」は別のこと! 「舞鶴市長」「土俵」「女人禁制」「大阪府太田知事」「バーミヤン大仏」「宝塚市中川市長」「掛川市松井市長」

「舞鶴市で行われた大相撲の春巡業で、市長が倒れた際、救急措置のために土俵に上がった女性に対し、土俵から降りるように場内放送があり、波紋を広げている」とのこと。
 
日本テレビ「news every」でも、このニュースを紹介していたが、そこで行われた議論のしかたは
①緊急時での不適切な場内放送
②時代に合わない古い伝統(女性差別)
のどちらに焦点があるのか不明であり、これから放送される他の番組や、ネット上に広がるであろう議論も、同様に、焦点がズレたものになるのでは……という予感がする。
 
番組の司会者は「なぜ女性が土俵に上がってはいけないのでしょうか?」と伝統に疑問を呈するようなことを言っているが、コメンテータのほうは「緊急時であるので、そのようなアナウンスは適切でない」と騒動について言っている。街でのインタービューを紹介しているのだが、そこでも「今の時代にそんな伝統は廃止すべき」という伝統についての意見と「状況に応じて臨機応変に対応すべき」という今回の騒動についての意見が混ざっている。
正しい議論のしかたは、「今の時代に古くてそぐわない伝統は廃止した方がいいという議論があるが、とりあえずそれは置いておいて、今回は、緊急時であっても伝統は守るべきかどうかということ」であろう。
 
ところが、番組では、「とりあえずそれは置いておいて」ということをせずに、積極的に取り上げているので、二つの別々の問題が混じってしまい、焦点がどこにあるのか、もはや不明である。
「かつて、大阪府の太田房江知事が優勝力士に土俵上で知事賞を手渡すことを見送ったこともある」という話から始まり、「小学生のわんぱく相撲の予選で女児が優勝したが決勝出場を拒否された」という話や、「力士が断髪式で母親に髪を切ってもらうために、母親が土俵に上がらずに切る工夫をした」という話や、「職業にも昔から男女の差別の問題がある、例えば寿司職人の場合は」という話まで持ち出し、「男社会」などの言葉も交えて、女性差別の問題だ!と認識すると、その型に当てはまる話題がズラッと出てきてしまうようであり、型にはまった思考しかできない人の特徴が丸ごと出ている。
(「型にはまった」というよりも、「ものの区別ができない」というのは、問題がゴチャゴチャになってしまうということであり、頭の悪さを表しているともいえるが……)
 
「今回の騒動の問題点は何か?」ということが捉えられなくて、報道番組が作れるのだろうか?
今回の騒動が混乱している理由を私が解説すると
①「土俵に女性が上がったからといって、伝統を破ることにはならない」→理由「緊急時だから」
②「女人禁制の伝統を守っているからといって、現代社会の男女平等の原則を破ることにはならない」→理由「別の話だから」
この二つのことを理解できない人が多いからである。
 
「女性は土俵に上がってはいけないという伝統がある」というのがそもそもの原因ではあるが、騒ぎになったのはどういうことかをよく見れば、「緊急時であり、しきたり云々をいっている場合でないのに、伝統を考えて女性は土俵から降りろと放送した愚かさ」が今回の問題なのである。
であるから、そもそもの原因など、今は放っておけばいいではないか!「相撲界の男女差別はけしからん」という話題の方が、以前から何度もされていて、論点が分かっていてやりやすい議論なので、そちらに流れてしまうのか?
 
そして、伝統(女人禁制)を守ることの意義と、現代の進歩した人権感覚(男女平等)の両立が理解ができない人、即ち、議論を分けるという思考に慣れてない人には、騒動の本質を見ることが難しく、男女差別こそが議論すべき大切な問題と感じてしまい、不適切なアナウンスの方は、それに付随した問題であると捉えてしまうのであろう。
 
スポーツ文化評論家の玉木正之氏は「伝統が本当に正しいか、時代に合っているかを考える必要がある。そもそも、相撲関係者がどれだけ伝統の意味を理解しているのか疑問で、おそらく教条主義的に『女性は土俵に上がってはいけない』としているのではないか」と指摘したとのことであるが、伝統(ここでは儀式、風習をさすのであり、伝統技術のようなものではない)というのは「正しいか、時代に合っているか」を考えるようなものではないのであり、古くから伝わっていることを守ってきたということに意味があるのであり(議論が拡散しないために、そういうことにしておきましょう)、伝統が「教条主義的(そう表現したいのであれば)」であるのは、あたりまえのことである。伝統の意味を理解していないのは、この評論家であるような気がする。
伝統というのは、現実的、合理的とは離れた、形式(かたち)を伝えるからこそ現在と過去との繋がりが見え、過去とつながっていることを忘れないように(よくないことも含めて)意識できるのであり、そこに意味があるのである(異論があるかもしれないが、ここではそういうことにしておいて下さい)。
相撲界は、伝統の意味を理解しており、むしろそれに頼っており、教条主義的な思想があるわけでなく、即ち「女性が土俵に上がるのはよくない」と考えているのではなく、伝統に従うことを大切にしているからそうしているだけである。
(「土俵の女人禁制は明治期以降とのこと」と、どこかに書いてあった)
 
なお、このブログのタイトルに「現代に合わない古い伝統を改めない愚かさ」と掲げたので、それが私の見解と思われないように(題目としたことと、題目の意味に同調しているかは別のこと)述べておきたいのだが、土俵が女人禁制になっていることぐらい、伝統なのであるからいいではないか!というのが私の意見である。
女人禁制は、憤慨する人はいても(「目障りな習慣で腹立たしい」というのは納得できるが、「男女平等に反する」というのは誤認だと思う)、それほどの支障はおきないのでは?強い女の子はレスリングでもやればいいではないか!(抗議はお断りします)
 
――関係ない話かもしれないが、三蔵法師も眺めた(すごいことだ!)であろう昔の仏像を、自分の信仰規範に合わないからと破壊した人物がいたが、「価値の区別」がつかず、歴史の長さと自分の生命の長さの差に気づかない鈍感さによるものだろう。
 
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(2018/4/6)
今日の日本テレビ「ミヤネ屋」で、この騒動についてやっていた。
 
宝塚市の中川智子市長が、「相撲の伝統を守るとしても、首長は性別に関わらず平等の立場であるべきだ」と話したとのこと。それは「伝統があっても、現代社会では首長は除外する方が問題が起きずに合理的」という考えなのだろうし、意味はわかるが、「しきたりを守る」ということでしか存続することができない(話を簡単にするために、ここではそういうことにしておいて下さい)、現実社会で生き延びるのが難しい伝統というものへの理解が薄いのでは?という気がする。
ところが、他の報道もよく見ると、「女性という理由で土俵の上でできないのは悔しい。変えるべきは変える勇気が大事」とか「伝統を守りつつ変革の勇気も必要なのでは」と土俵下からの挨拶で抗議したとの報道もあり、そうすると、「伝統を守るとしても」「変えるべきは変える」「伝統を守りつつ」という意味は「伝統を守るとしても、女人禁制だけは外せ」ということなのか?
それなら「現代社会の人権意識を優先して、伝統には拘るな」と言った方が分かるのであり、「伝統を守る」という言葉を残しながら「女性差別は反対」を表明するなど、「伝統は大切に思っています」というポーズをして、正しいことを言っているように聞こえるように工夫しているだけの、「築地も豊洲も両方活かす」のような、ただの「人気とりのパフォーマンス」だったのかと思い直した。
 
女性を含む救護にあたった人たちが土俵から降りた後、相撲協会関係者が大量に塩をまいたとの報道があったが、尾車親方は、「力士がけがをしたり、何かアクシデントがあった場合に塩をまくのは通常のことであり、女性が土俵に上がったから、それを浄めるためにまいたというわけではない」とのこと。
しかし、市長が倒れたというアクシデントがあったからという他に、やはり「女性が踏み込んで汚れ(穢れ)た土俵を浄めるため」という理由も含まれていたのではないの?なんか量が多かったなあ!追加しなかった?などと言ったら「それはおまえの邪推だ!そもそも女人禁制なのは女性が汚れているからではなく、神様が嫉妬しないようにするためなのだ!」と怒られるだろうか。
(ネットを見ると、「神様が嫉妬するから」と解説してあるものが多いが、それは、「汚れ」はまずいと思い、誰かが考えついたもっともらしい理由を、そのまま信じた人が広めたものではないのか?)
 
コメンテータの力士出身の大至は、
昨日の騒動は、伝統などを言っている場合ではない緊急事態に、女性を土俵に上げるななどと、とんでもないことである。
女性を除外しているのは、相撲もそうだし、歌舞伎もそう。今も伝統としてその風習を守っているが、それを伝統と理解せずに、女性差別と非難する外国があっても、それは文化の違いである。
土俵に塩をまいた理由は、尾車親方の言っている通りです。
――至極まともな見解である。
 
コメンテータの住田裕子弁護士は、日本は外国と比べると女性差別が多いと言い、相撲界での差別の話に触れ、そして、ゴルフクラブでも差別があったと言い、そして、昨日の騒動に話が続くのだが、結局、差別の例を挙げて「女性差別はけしからん!」と叫んでいるだけなので、話の内容に、先の大至のようなメリハリがなく、なんの「見解」も出てこない。
しっかりとした解説をする時もあるのに、女性差別がテーマになったとたんに、「こんなに差別が行われている!」と世の中の間違いを訴え、わめき散らすという状況になるのはどうしてなのかが不思議だ。
 
コメンテータの森永卓郎も、話を始めたとたんに、会社の社員採用の女性差別のことが飛び出していた。
そんなことは、今はいらないだろう!
考えて喋れば、きちんとした見解を示せるはずなのに、いい加減なコメントですまそうとするズボラさは何なんだ!
 
テレビ朝日「スーパーJチャンネル」の渡辺宜嗣アナウンサーは、「緊急時であるのに伝統を優先した、昨日のようなことはダメということは誰でもわかるのですが、問題は相撲の世界に普段からある伝統ではないでしょうか」というようなことを言っていた。
これは、社会のモラルである人権感覚と、相撲界にある伝統を守ることの意義との両立が理解ができない(矛盾に感じてしまうので、どちらかが間違っているはずだと考えてしまう)人の典型であり、私が既に書いた「男女差別こそが議論すべき問題と捉えて、不適切なアナウンスの方は、それに付随した問題であると捉えてしまうのであろう」という、そのままの姿である。
渡辺アナウンサーが人柄の良いこと、好感がもてることはわかるのだが、若い頃からある、賛同を得やすい軽い意見、「相撲の世界の女性蔑視は、もはや現代社会には通用しないものであろう」というような、分かりやすい批判、大衆世論(ミーハー的)寄りな、浅いものの考え方は変わらないのだなあ、という印象を受けた。
(昔、夜中の討論番組で、渡辺アナウンサーが何か世論そのままのような意見を言ったところ、横にいた田原総一朗が「だから、渡辺さんはだめなんだ!」とため息をついた場面が印象に残っている)
 
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(2018/4/8)
今日の日本テレビ「真相報道バンキシャ!」でも、今回の騒動についてやっていた。
 
そこで取り上げているのは、もはや不適切なアナウンスの話よりも、女性差別の伝統についてであり、土俵以外でも女人禁制があるという紹介や、今ではもう解禁されている女人禁制があるという話である。
 
その内容を聞いていると、現在でも女人禁制があるというのは、宗教的な島であり、「どうしてもその島に行きたい」という女性はいないだろうな、という気がするので、やりたいように伝統を守っていればいいのでは――と思うようなものである。
同様に、土俵も、「どうしても土俵に上がりたい」という女性はいないだろうな(なにがなんでも土俵に上がって表彰状を渡したいという女性知事以外は)という気がするので、伝統を守ってもいいのでは――という気がするのだが、どういうわけか、大変な議論になっている。
 
今ではもう解禁されている女人禁制というのは、山であり、昔は二合目までしか女性は登れなかったとのこと。「女性は登山禁止」など、そんなものが現代に通用しないのはあたりまえであり、そんなものは、伝統がどうのこうのとは無関係に解禁されるであろう。
 
であるから、皆の注目をあびていて、そして、伝統を守っても支障がない「土俵の女人禁制」など、「伝統を守る」という形を示せるものは少なくなっていくであろうから、貴重だろうと思うのだが……。
まあ、「女性は不浄」などというものがまとわりついていて、男性優位の考え方がのぞいているのが問題なのかもしれないが、それも昔からの考え方であり風習なのだから、土俵だけのことなので、許せばいいではないか!という気がしてならない。
 
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(2018/4/10)
今日の日本テレビ「ミヤネ屋」で、またこの騒動についてやっていたが、「女性寿司職人直撃」だそうで、この騒動と議論のくだらなさの極みのような番組内容であった。
 
掛川市の松井三郎市長は巡業のあいさつで「土俵に立たせていただいて大変感激している。倒れないように、万が一の時も男性のお医者さんが近くにいます」と発言し、来場者から「失言だ」という声も出るなど、不謹慎とも取れる発言に、市民からは批判の声が上がったそうである。
 
司会の宮根誠司は、「舞鶴市長が倒れたのに、それをネタに笑いをとろうとしているのは不謹慎(舞鶴市長に対する思いが至らない)」と解釈しているようだが(宮根さんのように頭が冴えた人でもピントを外すこともあるのか!)、そういうことではなく、「女医はだめかもしれないが(ここが冗談のポイント)男の医者だから大丈夫」と聞こえるので、それが不謹慎(正に問題になっている土俵上での挨拶であり、皆が真面目に議論している真っ最中なのに、この時期にそれを笑いにするとは!)ということなのだ。
それは、「女性だろうが男性だろうが、そんなことでもめるなんで……どうでもいいじゃないか!」と騒動をからかった発言であり、冗談なのであるが、女性差別の言質をとろうとする記者に誘導され、攻められると、本人は、「そうかなあ?そんなことはないんだがなあ?」と、笑いを誘おうとした自分自身の発言の分析能力がないので釈明ができず、釈然としない様子であった。(冗談はOKだったが、世論に迎合し、けしからん奴を見つけ出して得点を稼ごうとする記者が突いてくることを予想できなかったのがNGであろう)
 
コメンテータの梅沢富美男は、「女性が汚れているとは何だ!」と怒っている、というか怒ってみせている。「何がだめなのか、理由を言ってみなさいよ!」と怒ってみせているのだが、こういうおっちょこちょいにはどう対応すればいいのだろうか?「そういうことになっているから」ということであり「だれもが納得する正当な理由」など、ないに決まっているではないか!
「理由がないのに不当な差別をしている」のは皆わかっているであり、自分だけがそのことに気づいていると思って張り切っているのがおっちょこちょいなのだ!
強く怒っている様子を見せることで、「自分は女性差別のような不当なものには怒りを感じるのです」と見せるチャンスだと、怒りの芝居をしているとしか見えない。
 
料理界での女性差別については、相撲のような特別な世界ではないので、「昔はいなかった女性の寿司職人が、現在はいる」ということであり、世の中は正常であることがわかるのであり、「結構なことだ」ということになるだけなのに、今回の騒動に絡めて何を言いたかったのか?
寿司の話など、そこら辺に詳しく得意な梅沢富美男に喋りのネタを与えただけだ!
 
「昔は女人禁制などというものがあったのだなあ……。今はなくなってよかったなあ」と感じることができるのは、伝統というものを伝えている場所があるからこそではないか?
 
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(2018/4/13)
今日の日本テレビ「ミヤネ屋」で、またこの騒動についてやっていて、今日は、地方巡業の富士山静岡場所で、ちびっこ相撲に女の子を出場させないように、通達があったとのこと。
その理由は、「男子より女子が怪我をするケースが目立つので、万が一けがをして顔が傷が付いたら困る」という、安全面の配慮からとのこと。
 
まあ、「文句が付けられないような理由をひねり出した」という印象が強いが……。
 
コメンテータの春川正明は、アメリカ人と話したのだが、まだそんなことやってるの」と唖然としていたとのこと。
このコメンテータは、「女人禁制をしている」と「女人禁制のしきたりを守っている」の区別ができないのだろう。自分がわからないから、アメリカ人にも事実を正しく伝えることができずに、「日本は女性に対する人権意識が非常に遅れた国なのです」と伝えてしまうのだろう。

2018年3月 2日 (金)

もらったものでも返す理由があれば返すが? フジテレビ「金曜プレミアム・緊急!トラブルSOS」「小室圭さん母」

フジテレビ「金曜プレミアム・緊急!トラブルSOS」で詐欺被害について紹介していた。
 
結婚するはずの男性の同居人が仕事に出かけた後、女性が部屋の掃除をしていると、「掃除をしてくれてありがとう」というメモが掃除をしている物の下から出てきたそうで、「優しい、恥ずかしがり屋の人」という印象をその女性は持ったそうである。
しかし、それは、「そういう演出をすれば、この女はバカだから、すぐに騙されて、オレを良い人だと思うだろう」と知能程度を読まれただけである。
そして、300万円とマンションを奪われてしまったとのこと。
詐欺師に「いいカモだ」と目を付けられるのは、それほど頭脳優秀ではない詐欺師にさえも、頭の働きを読まれてしまうほど、レベルが低い頭脳の働きであるからである。
 
悪質マンション販売の営業マンに怒号を浴びせられた被害者の男性だが、「信用できないので、購入しない」と営業マンに購入を断るのならば、相手が説明をするのを遮り、さっさと断るべきである。
相手の勢いに押されるのであろうが、営業マンが必死で売ろうとしている心情を思いやれば、期待を持たせたり、販売努力をさせたりするのを、その気がないまま眺めている側に罪がある、と私は感じた。
 
最後に、女性の結婚詐欺師に騙された男性が、女性に貢いだ話があり、まあ、よくあることであろう。
それとは異なるが、婚約していた時にもらい、結婚しないことになったのだが、「借りたものではなく、贈与を受けたものなので、返す必要はない」との理由で、返還要求に応じず、金銭トラブルになったとの報道がどこかであったが、もらったものであっても返す理由があれば返すことはおかしくない(ましてや相手が要求してるのに――これで十分な理由ではないか!)ので、「借りたものではないので返す必要はない」というのは、単に返したくなかっただけであり、そのために行った不誠実な理由づけに感じるが……。
私も、父が「これは~さんから頂いたものだ」と大切にしていた貴重なものを、亡くなった後に、頂いた方に「父が大切にしていたのですが、私には良さが分からないものなので、お返しします」と申し出たところ、相手の方に受け取ってもらえたことがあった。
もらったものを返すというのに不自然な要素は何もない。
 
昔、8年間新宿の繁華街に事務所を借りて仕事をしていたが、その間、色々なセールスマンが、こっちは仕事で忙しいのに押しかけて来て、勝手なことを喋りまくり、中には完全に詐欺だとわかるものもあった。
詐欺師は、言っていることがおかしいので、その、おかしなことを言い出した瞬間に詐欺だとわかるのだが、番組を見ていると、騙されている人たちは、何故気づかないのか?と不思議でならない。

2018年2月25日 (日)

交通事故の分析は得意だが、日本語の分析は苦手なの? 後続車の運転手は目撃しているはずでは? フジテレビ「無念を晴らせ!密着!交通事故鑑定人」

フジテレビ「無念を晴らせ!密着!交通事故鑑定人」で、ある交通事故を紹介していた。
 
事故は、交差点で、直進してきたタクシーにバイクの運転手が轢かれて死亡し、警察は、バイクの急な右折が原因であり、バイクが勝手にバランスを崩し転倒したと結論付けたが、バイクの運転手の母親は納得できないとのことで、バイクはなぜ交差点で急に右折したのかを、交通事故鑑定人が究明するとのこと。
 
事故に遭ったバイクの後続車の運転手の調書には「前方のバイクが急に右折してきたのにビックリしてブレーキをかけました」と目撃証言があり、この証言をもとに警察は判断したとのこと。
 
……言っていることがわからないが? 事故に遭ったバイクの後ろを、追いかけて走っていたのだろう?
「前方を走っているバイクが右折してきた」という意味がわからないが?
後続車ではなく、対向車ではないの?それで、「前方から向かって来たバイクが右折してきた」のではないの?
 
だが、状況説明では、間違いなく後続車の証言である。それなら「右折してきた」ではなく「前方を走っているバイクが右折した」でないの?日本語を間違っているのでは?
 
交通事故鑑定人は、数日後に、「”右折してきた”というのは自分に向かって右折してきたということであり、後続車ならばそのような言い方はしないはず」ということに気づいたとのこと。
 
あのなあ、それは「気づく」ということではないだろう!そもそも、はなから日本語としておかしいだろう!
それによって新しい事実(何か他に右折してきたものがある)に気づいたのは結構なことだが、私は番組を見ながら、「前方を走っているバイクが右折してきたとはどういう意味?」と頭を悩ましていたのだが……。
 
交通事故鑑定人の見解は、後続車の運転手の証言「前方のバイクが急に右折してきたのにビックリしてブレーキをかけました」を警察は間違って解釈したのであり、正しくは「前方のバイクが、急に右折してきた車にビックリしてブレーキをかけました」ということであり、急ブレーキをかけたのは後続車ではなく、バイクであるということである。
 
しかし、それは、「”前方のバイクが急に右折してきたのにビックリしてブレーキをかけました”という文章で、”右折してきた”という言葉が不自然にならないようにするには、どこに読点を打てばいいでしょうか?また、足りない言葉があれば加えなさい」という、小学生か中学生レベルの国語の文章解釈の問題を、警察は解けなかったのであり、交通事故鑑定人は数日かかってやっと正しく解いたということですよね?
 
そして、「急に右折してきてバイクを驚かし、そのまま走り去った車を目撃している人がきっといるはず」と、情報を提供してくれる目撃者捜しが始まり、一人の目撃者を発見して、バイクに落ち度がないことを証言をしてくれることになって大喜びしたのだが、約束したのに現れず、番組ではそのことを残念なこととしている。
そして、急に右折した車を見ている可能性が高い、として、バイクを轢いてしまったタクシーの運転手に手紙を出したとのこと。
 
しかし、それはおかしくないか?
後続車の運転手は、急に右折してきてバイクを驚かした車を見たからこそ、「右折してきたのにビックリして」と証言したのだから、再度その後続車の運転手に、交通事故鑑定人が推測した状況が正しいのかを確認してもらえばいいではないか?
後続車の運転手こそ目撃者であり、その証言から、バイクを驚かしそのまま走り去った車の存在がわかったのではないのか?
 
何で新たな目撃者捜しを始めたりするのだ?
何でタクシーの運転手に手紙を出して、後続車の運転手に手紙を出さないのだ?
後続車の運転手こそ、自分の目撃証言を警察に誤解された張本人であり、それによりバイクの運転手が悪者になったのであり、そのことを警察に抗議し、交通事故鑑定人の推測が正しいことを証言できる人物であり、事故解明の鍵になる最重要の証人であろう。
交通事故鑑定人は何を考えているのであろうか?後続車の運転手はどこかに消えてしまったのだろうか?
私には番組の進行内容が不思議であり、不可解であり、意味が理解ができない!
 
後続車の運転手のおかしな日本語の証言をそのまま調書にしてしまった警察官、調書にある証言を読んで数日してからやっとおかしな日本語であることに気づいた交通事故鑑定人、目撃しているはずの後続車の運転手に接触しないことに疑問を感じない番組の制作者、みんな頭は大丈夫か?
 
フジテレビの番組については、以前にもこのブログで
2018/1/18「誰でも思いつくことであり、誰でも気づくと思うが? 実録SOSを感じ取れ!! 911にピザの注文電話!?」(http://jukusato.cocolog-nifty.com/blog/2018/01/post-87da.html)
2017/9/21「証拠の映像にはならないが? 弱小バスケ部の奇蹟 全米感動大逆転」(http://jukusato.cocolog-nifty.com/blog/2017/09/post-7b6d.html)
2017/7/21「おかしいと思わないのだろうか? 戦死の夫からの贈り物!死後62年たち起こった奇跡」(http://jukusato.cocolog-nifty.com/blog/2017/07/post-1a9d.html)
2016/2/25「番組の内容がおかしいと思うが? 無実の罪で捕らわれた夫 暴かれた衝撃の真実」(http://jukusato.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/post-1dee.html)
で、「ちょっと考えればおかしいとわかることでも、何も考えずにそのまま放映する、といういいかげんさが以前からあると思う」と書いたことがあるのだが、今回もまたもや、番組の内容に疑問が尽きないのだが?

2018年2月15日 (木)

既に「泰明小学校」の校名がブランドでは? 「泰明小学校の制服にアルマーニ」

有名な「泰明小学校」の制服に、イタリアの高級ブランド「アルマーニ」を選んだことに、世間で賛否の議論があるようだが、価格が高いことや、制服にどれほどの教育効果があるのかということが言われているようだ。

和田利次校長は、アルマーニを採用した理由について「銀座の街の学校として発展していくために、海外の有名ブランドの力を借りるのもひとつの方法かなと、泰明らしさの中に含まれてもいいのかなと発想した」とのこと。

私は、学校の選択が、「泰明小学校」に見合うような、価値の高いものという意味で「アルマーニ」を選んだのであれば、根本的な考え違いをしていると思う。

もし、名も無い私立の学校が、なんとか校名を高めようと、高級ブランドの「アルマーニ」を選んだのであれば、意味は分かる。
しかし、区立ではあるが、銀座という場所柄「泰明小学校」は既に有名であり、すでに校名がブランドになっているのでは?
それならば、野暮ったい安い制服でも「泰明小学校」の名前を入れれば、それがブランドになるであろう。
そこに、なぜ「アルマーニ」を選ぶのか、その意味がわからない!

「中央区立」の誇りはないのだろうか?「アルマーニ」などまったく似合わないだろう!

2018年2月12日 (月)

私のブログでの「小池百合子」批判と「石原慎太郎」擁護 有本香「『小池劇場』の真実」

2017/10/22の衆院選で、前職のMJ氏は、小池百合子人気の風向きにのって民進党に離党届を出し希望の党に転じ、ポスターに刷られた「民進党」の文字の上に「希望の党」のシールを貼り、ポスターの「小池百合子」を大きく目立つように直すようにスタッフに指示する様子がテレビに映っていた。
ところが、小池氏の「排除発言」問題から、徐々に批判が高まってくると、ポスターから「小池百合子」を引っ込めて選挙に臨み、有権者からその無節操ぶりを呆れられていた。
まあ、以前からテレビの討論番組などで、そんな人(ポーズ取り)だろうという気配はしていたが、人の好い素直な人物なのである。
 
結果、小池氏の希望の党は衆院選で惨敗し、立憲民主党が台頭した。
それ以降、希望の党と小池氏の人気は凋落し、小池氏の今までの言動に批判が浴びせられている。
 
2017/11/15発行 有本香「『小池劇場』の真実」(幻冬舎刊)を購入して読んだが、著者は、世間が小池氏を持ち上げて賛美していた最中から、それを否定していた人である。
 
私もブログで度々小池氏を批判の目で見ていて、それを書いていたので、今、ようやく世間も批判の目でみるようになり、評価も落ち着いた状況になったので、自分で見直してみた。
以下は、過去の私のブログから、関連する部分を全て拾ったものである。
 
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(2016/9/21)
報道によると「『専門家会議』が盛り土を提言した1~2年後には都が方針変更していたことになる。都は当時の担当者らから詳しい経緯を聴取し、どのような判断があったのか調査する」などと言っているらしいが、そんな調査は必要ないはずだ。
 
報道では「都幹部によると、盛り土の計画は2010年7月までに変更されていた」とのことだが、「変更されていた」というのは「計画書第X版」の「XXX」が「計画書第Y版」では「YYY」になっている、と明確にわかるはずである。
「都が方針変更していたことになる」などというあやふやな話ではない!
 
「専門家会議」が提言した後、盛り土の件がどの書面まで載っているのか、書面を順番に並べてみればいいだけの話である。
 
小池知事に「盛り土されていない」と言われ、(石原元知事も歴代の市場長も)「それでいいんですよ」と言えない状況になってしまって慌てているのでは?
 
「何をやってるんだ!」と思える新国立競技場の騒ぎと共通しそうな、「誰かが責任をもってやってくれているのだろう」という、組織にありがちなセクショナリズムの無責任の結果で、誰かが計画を変更したということではなく、「全体の流れでそうなっていったので、その流れに皆がついていっただけ」ということではないのか?
 
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(2016/9/22)
日本テレビ「ミヤネ屋」でも、出演者が「盛り土の方針を、いつ誰が変更したか」と議論していたが、誰も『変更した』という意識を持っていない」という見解はなぜ出ないのだろうか?
 
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(2016/9/23)
日本テレビ「ミヤネ屋」で、スタジオの出演者の一人は「(変更した)犯人は突き止めないといけない」と言っているが、そんな重要なことを、サラリーマンの都庁職員が自分の判断で変更するはずはない、ということも想像できないのだろうか?
 
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(2016/9/30)
本日のニュースで「豊洲空洞、責任者特定できず」、原因は「職員間の連携不足と結論付けた。隠蔽の意図は否定した」とのこと。
まあ、そういうことでしょうね。
小池知事は「流れの中で、空気の中で決まっていった」と言っていたが、「全体の流れでそうなっていったので、その流れに皆がついていっただけ」という私の分析そのままだ。
大がかりな調査分析をしなくても、ニュースの内容を見ていれば、素人でも常識でわかることだ。
 
テレビ朝日「報道ステーション」に出演した千葉大学教授は「集団的無責任は構造上の問題が大きい。職員ひとりひとりが主体的な責任を自覚することが大切」と話していたが、私の言っているように「セクショナリズムの無責任」であり「職員ひとりひとりの無責任」ではないのだ。
「責任感がない」のではなく「責任が不明瞭で責任回避しやすい」ので、外部からの批判や窮屈な規則から逃れ、その分、自分たちの知恵を生かせる余地が多く、よい仕事をしやすいのだ。
 
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(2016/10/1)
TBSテレビ「ニュースキャスター」でも「盛り土をするはずが……」とサラリと言っているが、「するはず」というのはどこから出てきたのか?提言にそうあるからか?「提言通りにしなくてはいけない」という根拠はどこにあるのか?という疑問を報道機関は抱かないのだろうか?
そこにこそ、この問題の根源がある(責任感のある職員たちが、誰も、盛り土をしないことを気にしていない)と気づかないのだろうか?
「周りが皆そう言っているからそうなんだろう」というだけで「疑問」などは感じず、「事実の確認」や、「独自の視点」での取材など、今のジャーナリストはしないのだろうか?「洞察」などという能力には縁がないのだろうか?
 
都の報告書でも「5年もの歳月の中で、さまざまな職員が関わりながら決まったが、問題を指摘する職員は一人もでてこなかった」とのことだが、それは誰も「問題だ」と思わなかったからだろう!
公的な機関なので、「内部の職員だけで決めたわけではない」という言い訳のための、外部の人間での形だけの会議を開く必要があり、そこでの結論である「提言」などは重要でないからである。
そのくらいの分析を新聞もテレビも説明、解説しないのはどういうことだ?
 
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(2016/10/2)
フジテレビ「Mr.サンデー」に出演していた元都庁職員が、ようやく「専門家会議の提言をどうするかは勝手であり参考にするつもりぐらいでいたとも考えられる」というようなことを言っていた。それは私が最初から言っていることであり、「盛り土する」などと決定はしていないので、それを「いつ誰が変更したか」とか「責任者の特定はできず」などという、全ての報道がピントはずれなのだ!
 
司会者はそれを聞き、「いやー、しかしそれは……」「そのようなことはだめでは」との意見を言っていたが、だめかどうかではなく「事実はどうだったのか」ということなのだ!問題のポイントを絞る能力がなくては議論の司会はできないだろう。
 
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(2016/10/4)
日本テレビ「ミヤネ屋」でも、まだ、コメンテーターの岩田公雄が「誰かが、盛り土がなくなることを、確認していると思うのですが?」と言っているが、なぜ「確認していないのか」を推理する能力がないのか?
 
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(2016/10/4)
すり寄ってるのか? 丸山珠代五輪相「先輩としての小池東京都知事を尊敬しております」
 
丸山珠代五輪相は、衆院予算委員会で、自分の心の内面を表明する必要のない場面だと思うのだが、なぜこんな言葉を公の場で口にするのだろう。そんな事は内に秘めておけばいいことだろう。
 
小池知事は、当選したとたんに華々しい目立つ活躍をしていて、注目されており、評判がいいので、今のうちにすり寄っておく方が得だとでも思ったのか?
小池人気のおこぼれにあずかろうとしたのか?
 
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(2016/10/6)
日本テレビ「ミヤネ屋」で、司会者は「誰かが変更したと思うんですが」と言っていて、「思うんですが……」というあやふやな言葉から抜け出せないようだが、「どうして思うのか」を自分で明確に述べようとすれば、自分が雰囲気にたよって喋っているだけである(実は何も思ってはいない)ことが自覚できるだろう。
 
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(2016/10/6)
「協力する意思を示していた石原慎太郎元知事が一転して都のヒアリングを拒否することを伝えてきた。産経ニュースなどが伝えた」とのこと。
しかし、それは「さらし者にして攻撃するのを目的とするような公開ヒアリングは勘弁して下さい。それ以外の、事実究明に役立つことならばいいですよ」ということではないのか?
 
案の定、石原氏が「そういうことではない」との声明を出した。当然だろう。
 
ネット上には、「全面協力を打ち切り、小池百合子都知事との面会もヒアリングも一切しないという、問題を全て投げ出したかのようなものでした。これには様々な人が驚き、あれは嘘だったのかと多数の批判意見が寄せられる事になりました」というようなものもあった。
 
他にもネットでは「そんな石原さんの姿勢に、逃げた、犯人確定、などと批判の声があがっています」「限りなく黒に近い。自分が豊洲問題に深く関わってたって言ってる様な物じゃ?」「石原慎太郎東京都のヒアリング拒否だって、こいつが犯人なんだからね」「石原元都知事ヒアリング拒否って、じゃあアンタが悪いってことじゃん ハイ、犯人確定~」などとあったが、要するに記事の見出ししか読まず、「ヒアリングを拒否→犯人だから」の型に当てはめているだけで、「その前はヒアリングを受け情報提供する言っていたのはどうしてか」という状況を見る力はなく、「やましいことがないならば、ヒアリングを受けるはず」という単純な思考しかできないのだろう。
報道はそのような興味本位ではしゃぐ大衆のレベルをわかった上でわざと誤解をあおる言い回しをしているのだろう。
 
石原氏は「何も隠していることはありません」と見栄をきるために「全面協力します」と言ったのだろう。しかし「全面協力」の意味が自分の考えていたことより拡張されてしまったので、「どんなヒアリング形態も受け入れるという全面協力はしない」が「支障のない限り、できるだけの協力はする」と訂正したのだろうが、そこら辺のニュアンスはなぜ記事に盛り込まないのだろうか?
ありそうな、普通のことになってしまうので「石原逃亡!」の見出しが打てなくなるからか?
 
「やはり石原は悪い奴だ」と大衆を喜ばすための、わざと誤解を誘発することをねらった、悪意と策略のある報道としか思えない。大衆迎合の極みか?そこまで程度が下がったか!
 
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(2017/3/3)
石原氏は、「やるべきことをやらずに事を看過し、日々築地で働く人を生殺しにしたままほったらかしにして。しかもランニングコストにべらぼうなお金がかかる。あるいは、築地の方々への補償もべらぼうなお金がかかる。こういった混迷、迷走というものに対する責任は、今の都知事、小池さんにあると思います」と言ってるが、その通りだと思う。
 
豊洲移転問題は、小池知事が自分のポーズ作りのためにやっているのであり、自分を正義の側に置くのにいい材料だと目をつけて行っている……ような気がする。
石原氏は、「小池知事が自分の権限で豊洲移転を決定すればいいのに、なぜそうしないのだ!」と言っているのだ。
 
小池知事は、世間の石原元都知事への悪い印象を利用し、それに乗っかる発言(「よくわかりませんでしたね」とか)をすれば、世間は賛同して自分に共感を抱くに違いないと読んで、うまく立ち回っている……ような気がする。
石原氏は、「私を踏みつけることで、都民の機嫌をとるな!」と怒っているのだ!
 
記者の、上から言って聞かせるせるような「だから、それを訊いてくるのが石原さんの責任だったのではないですか?今日の会見の」というバカにした声の調子にはぞっとした。
 
最後に、「都民の方は納得されたと思いますか?」と叫んだ女性記者の、この定番の台詞は、「やっぱり出たか!」とうんざりさせられるものであった。
 
ニュース番組のレポーターが、鋭い追求をして活躍している様子を番組内で映すための場面作りのための質問をしたり、正義を気取った幼稚な意識で反省を求めたり、説教するような態度であったり、とっちめたり侮辱するような言葉を吐いたり、事実の追求でなく自分の主観を述べてそれに対する意見を求めたり、ジャーナリズム精神の欠如した姿勢、そんなものだけが伝わってくる、記者の程度の低さが、やたら目につく会見であった。
 
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(2017/5/14)
「小池都知事が東京五輪の東京以外の仮設施設にかかる費用500億円を負担すると表明し、開催にかかる費用残りの9000億円は誰が支払うのかという問題が片付いていない」とのニュースをやっていた。
もう手遅れだろうが、莫大な費用負担が問題になり、責任者たちが不満を言い合っているのを聞くと、「そんなことは3年前に予測できたことだろう!」と言いたくなる。
 
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(2017/10/24)
「排除」は当然だ!
民進党の蓮舫前代表は、民進党出身議員らの合流に際して理念や政策の一致を求めた「排除の論理」に対し「排除するという言葉に耳を疑った」との報道があった。
そして、選挙の結果、「希望の党は惨敗 小池代表『排除』発言で謝罪」とのことである。
しかし、なぜ謝罪するのだ?
希望の党が民進党出身のリベラル派を排除するのは、理念の異なる面々と一緒にやれないということであり、当然のことであり、「排除」という言葉に人々が反発したというのは本当だろうか?
若狭氏は「『排除』という言葉は過激だった」とのことだが、理念を保ち、筋を通すのは結構なことではないか。そのくらいの言葉が出ないようではだめだろう。「相容れない敵と考えている」ということが分かりやすい、よい表現だ。「寛容、協調」などを大切にする場面ではないぞ!
 
政策の内容と実施に情熱を持つのではなく、誰を排除するとか、どこと合流するとか、だれが仲間だとか、そんな事ばかりに目が向いていることに、人々はうんざりしたのではないか?
 
小池氏の場合はストレートに支持されることを目指していて、「何のために、その意図、計画」がすっぽ抜けて見えるのだ。政策の話に真実味が感じられないからだ(「豊洲と築地、両方を活かす」――やっぱり!出たかっ!耳当たりのよい言葉!と思いました)。
 
政策の実施を重要に考えるよりも、自分の立場や、どう見られ、どうすれば多くの人に気に入られ(受けがいい)、自分の人気が上がるか、影響力を保てるか、そんなことばかりを大切にして発言している正体が、人々に見えてきたのではないか?
 
東京オリンピックは間に合うのだろうか?史上初めての「オリンピックに間に合わなかった国」にならないだろうか?小池都知事は、憂慮をもって真剣に臨んでいるのだろうか?(既に足を引っ張っているのではないか?)人任せにしていないだろうか?
そんな不信感を持っているのは私だけだろうか?
 
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(2017/10/25)
小池代表の挨拶で「国政は国会議員の皆様に委ねる。自分は都政に専念する」とのことだが、「都政に専念」と、都知事としての自覚と責任があることを示し、「皆様に委ねる」と謙虚さを示し、代表の立場は、自分が創ったもので責任があるから辞任できないと、所有権と正当性を示し、辞任するなという人(自分の側近では?)もいる、ということで、影響力を保持さえすれば、当面はそれでよしということだろう。(もっともらしいことを言う名人に見えるが……)
 
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(2017/11/24)
今日の産経新聞に、書籍広告で、2017年11月15日発行 有本香『「小池劇場」の真実』の内容が載っている。下記の通りである。
 
誤認だらけの豊洲移転問題、東京五輪の根拠のない見直し、人気とりだけのパフォーマンス。都政を掻きまわしたかと思えば突然、新党を立ち上げて、都政を放りだす。かと思えば、都合が悪くなると今度は都政に専念すると態度を一変。この一年以上にわたる「小池劇場」とはなんだったのか。
 
上記は、私の懸念がそのまま書かれているような様子であり、書籍を読まなくてもよく分かるなあ、という気がする。

«自分が座りたかったのではなく、自分の考え方と異なる人が許せなかったのでは? 「優先席に座り腹が立った」