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2017年8月21日 (月)

「暑い日が続いておりますが……」?長雨、冷夏だが? 「モスバーガー」手書きメッセージ

自宅近くにある「モスバーガー」に最近よく行くのだが、店先にあるメッセージボードは各店のスタッフが毎日手書きしているとのことで、温みがあって評判がいいらしい。
 
今朝、何気なくボードを見ていたのだが、「暑い日が続いておりますが、水分補給・睡眠・食事をしっかり摂って下さい」と書いてある。
しかし、今朝は外は曇り空であり、昼近くになってようやく日が差し始めたところで、ここ数日は「長雨や日照不足の影響が農作物に出始めている」と報道されていて、「暑い日が続いている」などということはないのだが?
(5日前の新聞では「東京都心は8月では1977年の22日連続に次ぐ40年ぶりの長雨」とある)
 
このメッセージは夏の決まり文句であり、店のスタッフは何も考えずに習慣で書いただけであり、自分の仕事であるから書いたのであり、「温みのあるメッセージを書け」と言われて、その場の思いつきで書いただけなのだろう。
 
最近の世の中を見ていると、「これでいいのだろうか?」という疑問を持つことなく、目の前の事実などは目に入らず、世の中の習慣は学んでいて、それに沿ったことをするのが正しいと思っているような人たちばかりに感じるのだが、このメッセージもその結果なのだろうか?

2017年8月13日 (日)

終戦直後の様子などは知らない?終戦記念よりも自分の足下は大丈夫か? フジテレビ「フルタチさん」「今夜は『女性の心』解明SP」 活字離れ?

フジテレビ「フルタチさん」を見ていたら、インタビューに答えていた83歳の老婦人が、自分の母親への感謝の気持ちを述べているところで、「そのころは旅館に泊まるのにお米を持っていかなきゃならなかったから」と発言したところ、インタビューしている男性から「どうしてですか?」と質問され、その婦人は目を丸くして「だって、終戦直後は食べるものがなかったから」と答えていた。
 
この男性インタビュアーは、終戦直後に旅館に泊まるのに、なぜ米を持っていくのか、意味が不明だったのだろう。
 
私も戦後生まれなので、戦中や終戦直後の様子などは直接は知らない。
しかし、たかが70年ちょっと前のことであり、大昔ではない。
つい先頃まで存命していた世代の人たちの手になる、小説、日記、エッセイ、ルポルタージュなど数々(山ほど)出版されているではないか。
(高見順「高見順日記」、山田風太郎「戦中派虫けら日記」「戦中派……日記」等6冊、古川緑波「古川ロッパ昭和日記」、井上光晴「虚構のクレーン」等、本当に山ほどある)
農家への買い出しや、外食券のことなど、食糧事情のことが多数記述されている。
 
存命している、戦時中に子ども時代を過ごした人たちの疎開体験や、ひもじかった想い出などの話はたくさんある。
(漫画家の東海林さだおの食べ物エッセイにもちらほら出てくる)
そのようなものを目にしたことがないのだろうか?
 
現代の延長でしか過去の時代を見れなくなってしまうほど、思考というものが退化してしまったのだろうか?
たまたま、想像力というものが欠けているインタビュアーだったのだろうか?
書物、活字というものから遠ざかっている人だったのだろうか?
 
質問された婦人は目を丸くしていたが、私も同じだ!
 
テレビ局は終戦記念の報道をするよりも、自分の足下を見たほうがよいのではないのか?

2017年8月 4日 (金)

「車もこないのに赤信号で待っている人はバカ」? 池田清彦「他人と深く関わらずに生きるには」(新潮文庫) 無謀な歩行者や自転車

フジテレビ「ホンマでっか!?TV」にも出演している池田清彦という生物学者は、頭の良い人だと感服する。
ユーモアがあり、著作を読んでいても楽しい。書いていることも切れ味がいい。専門の生物学の他に環境問題や社会、人間全般についてユニークな意見を述べている。
 
「他人と深く関わらずに生きるには」という本を読んでいたのだが、「車もこないのに赤信号で待っている人はバカである」という章があり、無意味にルールを守る愚かさについて述べているのだが、まあ言っていることはタイトルから想像がつき、想像の通りであるが、考えるべきポイントを要領よくまとめ、常識にとらわれない批判を加え、合理的な考察により、手際よく結論を導きだしていた。
 
同様の趣旨の議論について、私はこのブログで「形式主義ではありません、一つの手法です」(2014/7/16)というタイトルで、産経新聞に「常識欠いた形式主義」として掲載された、「コンビニでのタバコ販売で、明らかな中年男性に対して18歳以上かの年齢確認をするための証明の提示を求めるのはおかしい」という意見に対して、「意図があるのだ」と反論したことがある。
 
さらに、このブログで、医療事故の原因について考察し(2016/8/3)、病院がとっている対策である「どんなに顔を知っている患者であっても、規則通りに名前をきちんと確認する」ことについて述べたことがある。
 
「自動車の影すら見えないのに赤信号の前でじっと待っている」のと「明らかな中年オヤジに18歳以上か確認する」のと「毎日何度も顔をあわせている患者に毎回名前を尋ねる」のは、どれも無意味に見えるルールを守ることについて同じだと思うが、私が「無意味でない」と反論したくなるのは、「自動車の影すら見えない場合」のみに限って考察するのは現実的ではないと考えるからだ。
 
実際には、「自動車の影がまったく見えない場合」や「明らかな中年オヤジ」や「人は個性的な顔をもっている」だけでなく、「自動車が遠くの方に見える場合」や「自動車がわりと近くに見える場合」や「老け顔の場合」や「若作りの場合」や「似ている兄弟」や「似た印象の顔」があるからである。
 
そうなると、それぞれにどう対応するか、「場合により、また、人により対応が異なる」ということによる新たな問題の発生があり、単純な考察ではすまなくなるからだ。
(絶対に)ミスを誘発しないためにはどうすればいいのか、人間心理、人の行動の特徴(癖)も大きく影響してきて、組織の運用にも関わることになり、結局ルールの問題に行き着くのだ。
 
これは、実に現実的な問題であり、社会システムの問題であるが、池田氏は「他人と深く関わらない」自己の行動について考察しているので、この点についてはあまり触れていない。
まあ、面白くない問題なので、あまり興味を引かない考察になるであろうから、これについては書かないことにするが、池田氏が触れていないもう一つのことについて書くことにする。
 
私の住んでいる地域は、埋め立て地の近くであり、新しく計画的に整備された場所である。
道幅は広く、真っ直ぐ伸びており、車の数は少ない。歩いていて信号が赤になっても車は見えないことが多い。
この地区に引っ越してきて、しばらくは律儀に信号を守っていたが、しばらくして、バカらしいことをしていることに気づき、遠くに車が見えない場合は、信号は無視することにした(車が微かに見える場合は、運転手を驚かさないために、渡れる状況でも渡らない)。
すると、これが癖になり、街の中心部の交通量が多い場所でも、信号を見るよりも車をチェックする動作が無意識に出てしまい、危険な癖がついてしまったと感じた。
 
現実的なことを分析しても、池田氏のような面白い話にはならないのでここまでにするが、簡単に言ってしまうと、ルールには、多様な状況での、当てにならない「判断」というものを徹底して排除しようという意図があるので、池田氏の言う「自分自身の経験と判断の方を大切にしよう」「自分で判断するしかない」「自分で判断して行動する方がステキではないか」という結論とは、相反しているということである。
 
そして、池田氏の言っている「判断」というのは「合理的な正しい判断」を指しているようだが、世の中にはそれができない輩が結構いるのだ。
「ルールに縛られない自由な判断」というより、ルールは頭からすっぽ抜け、自分が車に轢かれないように用心し、自分が安全ならば歩行者優先、すなわち自分優先で行動するため、信号に従っている自転車にブレーキをかけさせ、ビックリしている自転車を睨み付けながら、赤信号を堂々と渡る歩行者に時々遭遇する。
また、自転車に乗っている人の中には、「自分以外の人は交通ルールに従っている」ことを認識しておらず、赤信号で停止している自転車を、「走る気がないから止まっているのだ」と錯覚し、青信号になり進み始めた自転車の前を平気で通り抜けるので、衝突事故が起きるのだ。
 
「青信号になったら渡る」と教えられ、信号が青になったとたんにダッシュする子どもが気になり、青信号で飛び出せるようにヨーイドンの格好をしている子どもを、側の母親が注意もせずに見ているだけだったので、こちらが声をかけて危険を教えてやりたくなったことがあった。
池田氏は「青信号だからといって横断して車にはねられるなど、交通ルールを守って殺されてしまう……」と書いているが、「青は進め」という交通ルールはない。
交通教本を読めば、青信号は「進め」でなく、「進むことができる」とちゃんと書いてあるので「自分で判断せよ」というのがルールである。

2017年8月 2日 (水)

他人への思いやり、良識の前では「笑い」は御法度か? NHK「バリバラ」障害者情報バラエティー

今日の産経新聞「談話室」への投書に、「コメント発信は良識持って」という55才会社役員の投書があった。
 
投書の内容は、「自分の生まれ育った場所で火災が発生し、知人が犠牲になったので、インターネットで検索したら、投稿サイトに『学校の近所で火災、笑える』というものを見つけた。当事者の不幸を思えば、笑えるものではないのではないか。自分が火災にあっても笑っていられるのだろうか。相手への思いやりや良識を持ってほしい」という、もっともな内容であった。
 
「学校の近所で火災、笑える」というのはどのような内容の投稿なのかわからないので、勝手な推測をするしかないが、「当事者の不幸」は目に入ってないし「思いやりや良識」とは別のところにあり、「自分が火災にあったら笑えない」のはもちろんであろう。
では何が笑えたのかというと、何か面白さを誘う感覚があったのだろう。要は、その感覚を非難できるのかということである。
 
おそらく、「学校の近所で火災、笑える」というのは、「真面目な学校」「マヌケな火災」という取り合わせの対比が笑いを誘ったのであり、自分とは離れたところの他人の出来事なので、その時点で「犠牲者の心情」までは思い至らなかったということであろう。
 
他にも、人がおかしいと思う感覚には微妙なものが多く、「箸が転んでもおかしい年頃」というのがあるが、昔、18才ぐらいの女性が3名ほど、コンピュータの磁気テープがグルグル回っているのを指さし「回ってる!」とおかしくて腹を抱えていたことがあり、私も若かったので、つられておかしくなってしまい、自分でも何でおかしいのかわからないのだが、笑いが止まらなかったことがあった。
 
また、子どものころから、人がウンコをしている姿は、マヌケに見えおかしく、笑いの対象にしてきたが、何でおかしいのだろう。
 
ベルクソンの「笑い」という有名な著作があるが、ここらへんを読んでに「笑い」とは何かを分析しないとならないだろう。
「笑い」はそこらへんに沢山ころがっており、感覚が優れている人ほど、また感覚が鋭い年頃だと、強く「笑い」を感じるのではないか?
 
とにかく、人には様々な状況があるのであり、自分の状況をそのまま他人に当てはめて非難するという思考の狭いことは間違っているし、相手のことを思うことができないのはしかたがない場合もあり、悪気があったわけではない場合は「赦す」ということが必要だろう。
 
NHK「バリバラ」「障害者情報バラエティー」という番組があるのを思い出した。
考え出すと、「笑い」というのは、なくてはならない大切なものであり、そこには精神の救いがあり、深い考察が必要な分野ではないかと思う。

2017年7月30日 (日)

お怒りの様子です NHK「ドキュメント72時間」「海が見える老人ホーム」

7月28日に放送された、NHK「ドキュメント72時間」「海が見える老人ホーム」に多くの人たちから感想が寄せられているが、鋭い批判もあり、金持ちを許せない人もいるようだ。
 
「ほんの一握りの幸せな人達」 →そうですね。
 
「いい老人ホームに入るには3500万もの大金が必要だと知り、身震いが止まらないぜ。明日葉を食べ続けて生涯現役を貫くしかないな」 →そうですね、不安になります。
 
「吹石一恵がナレーションの時は絶対に見ません。不愉快です。迷惑です。いい加減にしてください」 →そんなことを言われても……。
 
「死に損ないの巨大化老人ホーム」 →そうです、大規模の老人ホームです。
 
「あんな豪華な『刑務所』なんか入居出来ないな、アハハ!」 →そうです、同じ様な部屋がズラッと並んでいます。
 
「俺達貧乏暮らしから踏んだくった金で『贅沢三昧』」 →踏んだくった金?
 
「俺は書きたい事書かせて貰うからな」 →どうぞ。
 
「巨大化贅沢三昧の死に損ないの真下で『最期』を迎えるような感じだな、アハハ!」 →長生きしてしまった方々のようです。
 
「『税金』を食い物にして三浦半島ホームで贅沢三昧してるような御老体!!!」 →税金を食い物?
 
「貧乏人はそんな三浦半島ホームなんかとても入れない」 →金はかかります。世の中、平等にはできていないですね。
 
「何が海が見える老人ホームだっ!」 →同感ですが、売り文句なので……。
 
「御老体どもがッ!」 →老人ホームですから。

2017年7月29日 (土)

司法の精神に則った判決だと思うが、この見出しは適切なのか? 大阪地裁判決「朝鮮学校無償化、国の除外は違法」 産経新聞「独裁礼賛でも『適法』」 「zakzak」「トンデモ判決」?「国民情緒法」

大阪地裁の西田隆裕裁判長は、「大阪朝鮮高級学校を、国が高校授業料無償化の対象から除外したのは、教育の機会均等とは無関係の外交的、政治的意見に基づく処分で違法、無効だ」と判決を下したのこと。先に無償化除外を適法とした広島地裁の判決とは正反対となった。
 
産経新聞は、記事の見出しに大きく「独裁礼賛でも『適法』」と載せているが、「独裁礼賛を認める?おかしくないか!」と誘導したいのか?
司法の判決として、「独裁礼賛」について良否の判断を下したわけではないだろう。
「民族教育の意義」「北朝鮮の指導者や国家理念を肯定的に評価すること」については、「おかしなことではない」という判断(それ以上は首を突っ込まない)をしたのであろう。
 
「拉致問題解決の妨げになり、国民の理解が得られないという外交的、政治的意見に基づく処分は違法」と判断したことは、判決文からわかっているではないか。
「拉致問題解決の妨げにはなるならば、教育の機会均等の対象から外してよい」ということになるわけではない、という判断であり、司法における判決とはそういうものであるということだろう。
 
そういうことがわかっていて、意図的に判決の趣旨から目を逸らせようとする見出し「独裁礼賛でも『適法』」と載せるのは、どういうつもりなのか知りたいところだ。
 
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(2017/8/2)
今日の、「zakzak」(産経新聞社が発行する「夕刊フジ」の公式サイト)に、「編集局から」「的外れな朝鮮学校無償化除外『違法』判決 生徒たちの危険性こそ考えるべき」の記事があった。「報道部・森本昌彦」とある署名記事である。
 
しかし読んでいて、まるで、一般大衆の意見ではないかと思わせる内容に思えた。ある程度専門知識のある記者の書いた記事とは思えないのだが、司法の判決だという認識はあるのだろうか?
 
「トンデモ判決」であるとしていて、「的外れとしかいいようがありません」とあるのだが、何を的にしているのだろうか?
 
「判決を出した西田隆裕裁判長は民事訴訟のベテランと報じられています。法律は詳しいのでしょうが、社会常識については心配にさせられます」とあるのだが、判決というのは社会常識に基づいて出すものだろうか?(「法律は常識からできている」というのは私の考えですが、そのような根本的な法律論の話ではない)
 
判決に「(国が行った)外交的、政治的意見に基づく処分は違法」とあるのに、記事で「(的外れです!国は)北朝鮮(中略)の影響下にある朝鮮学校を問題視し、無償化の対象から外したのです」とあるのは何を言っているのだ?
「的外れです!国は、外交的(政治的)な対応をしたのです」と言っていることになるが、それでは判決への反論になっていないではないか!判決は、「それがいかん!」と言っているのだから、「的外れ」でなく「的中」ではないか!
 
記事で「朝鮮総連の影響を受けている学校で、生徒たちが学ぶ危険性こそ考えるべき」とあるが、それは「朝鮮総連の影響に政治的な対応をして、無償化の対象から外すべきである」ということになり、「政治的意見に基づく処分は違法である」という判決に対して「的外れです!政治的な対応をしたのです」と反論しているトンチンカンなこと(「的外れ」でなく「的中」!)だと理解できているのか?
 
自分の書いた記事をよく読んでいるのか?「トンデモ判決」ではなく「トンデモ記事」ではないのか?
 
「裁判所の非常識な判決が、北朝鮮の増長を許す一因になっている気がしてなりません」とあるのだが、判決内容そのものが、「国民の理解が得られないという、いわば常識によって判断してはならない」ということであり、「非常識な判決」というより「常識を戒めた判決」ということだと読み取ってないのか?
 
司法の判断に異議を夾むのは、ジャーナリストとして納得できる姿勢であるが、判決内容を理解せずに、一般大衆の心情で意見を述べては「記事」にはならないだろう。
 
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(2017/8/3)
要するに、「産経新聞」と「zakzak」の記者は「北朝鮮、朝鮮総連のやっていることはけしからん。だから無償化の対象から外すべきである」と言っているのであり、法律よりも社会常識を求める、一般大衆のミーちゃんハーちゃんと同じである。
(「法律は詳しいのでしょうが、社会常識については心配にさせられます」と気つかずに白状している通り)
 
法律家は無償化について「法的な観点から見て妥当かどうか(行政法のどの規定によるものか)」を判断するのであるから、北朝鮮、朝鮮総連がけしからんかどうかではないのである。そんなことは、法律家でない素人の私でも理解できる法社会についての知識である。
 
一般の人から見ると、日本海に向けて弾道ミサイルを発射する北朝鮮、その配下にある朝鮮総連に味方し、無償化の恩恵を与える非常識な結果だが、法律家から見ると常識的な判決であるということだ。
 
もちろん、逆の「無償化の対象から外すべき」とする判決もあるだろうが、その判決理由は「独裁国家であり、日本のためにならない、けしからん相手だから」というような判断ではなく、それなりの、(異なる法的観点からの)法的根拠が示されているはずである。
 
司法についての報道なのだから、記者は、法的観点の妥当性を記事の論拠にすべきなのに、もろに「社会常識」を反論の材料に持ち出しては、司法や法律についての知識がないと思われてもしかたがないということである。
 
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(2017/8/15)
ネット上には、不当判決、トンデモ判決であるとの意見が多数あり、日本国民の生命財産が侵され、日本人拉致被害者があることをどう考えているのか?との論調である。
要するに、けしからん相手の主張を認めることが理解できないようだ。
 
あるネットニュースでは、この裁判官について、「小学生レベルの理解力」「ダニ役人」「コイツなら、イスラム国の学校にも補助を出すだろう」とあり(公のニュースとは思えない言葉づかいだが)、北朝鮮、朝鮮総連が日本にとって警戒が必要なことを理解していない、教育の公平を大切にするだけの愚かな裁判官と思っていて、そんな人物の出した「間違った判決」であることは絶対に間違いないと信じている様子である。
 
しかし、その「間違った判決」という見方は、「けしからん相手であり、日本人に対してろくな事をしていない」ということと、「けしからん相手に対しては、その主張を認めない」ということが、「当然」のことのように繋がっているから出てくるのだ。
だが、それは「国民感情として当然」なだけであり、今回の裁判官は、そこを法律の適用基準に基づいてきちんと区別したのだという判決の内容を、まったく理解していないからそう見えてしまうのだ。
 
裁判官は、北朝鮮、朝鮮総連のやっていることは、けしからんかどうかの広い範囲を判断したのではなく、無償化の規定が正しく運用されているかどうかという狭い範囲だけを判断したのである。
だから判決に納得いかないならば、「狭い範囲だけを判断」することが間違っていることと、「社会情勢を含めて広く判断」すべき理由を、その法律的な根拠がどこにあるかを明示して主張すればいいのだが、「けしからん相手に甘過ぎる、厳しくするのが当然の相手である」という感情的(的外れ)な主張になってしまっているのだ。
 
ネット上に多数ある、「裁判では、けしからん相手に対しては、その主張を認めるべきでない」という意見は、韓国の「国民情緒法」(法律に縛られず判決を出せるという考え方であり、実際の法律ではない)と同じであり、自分の方がトンデモない意見を言っていることに気づいてないのだ。

世間はマスコミの体質を見抜けないのか? 埼玉県の小学校教諭「窓から飛び降りろ」と発言

先日、埼玉県の小学校で男性教諭が4年生の男児に「窓から飛び降りろ」と発言したとのニュースがあり、巷ではひどい教師がいるのものだとの非難がされていたが、私は新聞記事の内容から、マスコミが言葉を切り取り、ねじ曲げて印象操作したものだろうと推測していた。
 
私の勝手な推測では、悪さをした児童が、誰々からやれと言われてやっただけだと言い訳をし、それ対して教師が「やれと言われたら何でもやるのか?飛び降りろと言われたら飛び降りるのか?じゃあ飛び降りて見ろ」というような話だろうと思っていた。
 
昨日7月28日産経新聞「さいたま総局発」「ネット社会が揺らす『真実』」で、実際の発言は「やれと言われたら何でもやるのか?飛び降りろ言われたらやるのか?やらないだろ、やったらいけない事をやれと言われてもやらないんだよ」との話らしいとのことで、穏やかな言い方であり、むしろ私の推測の方が事実に近いのではないかと思うが、真実は同じだ。
 
マスコミ報道で、「東北で良かった」と一言に切り取るのと同じで、「窓から飛び降りろ」と発言したともなれば、暴言に対する集中砲火を浴びるのは目に見えている。マスコミはそういうことをしやすい体質だということを世間は見抜いていないのか?
 
何か注目を集める記事を書こうとしている記者たちが、聞きつけた事件を、真実を取材するよりも、世の中の正義感に乗っかり、世論を煽って自分も正義面することを恥じとも思わずに、いいネタだと思い、ねじ曲げて使ったのである。
 
記者たちに、元の発言を正しく伝えるフェアな精神を期待するのは、もはや無理なのであろうが、まあ、この地方発の小さな記事が載るということは、多少はまともな精神は残っているということだろう。
 
素人の私が、最初から、記事の内容を丁寧に読み、糾弾の口調(トンデモ教師と犠牲になった無垢で善良な子どもという決めつけ)を怪しみ、過去の同じ様なパターンを思い出し、そこから裏の実態を想像できたのに、マスコミや世間は、時間が経ってから徐々に真相が伝わって、ようやく事実が見えてくるという鈍感さは何なんだ?

2017年7月25日 (火)

「習近平、プーチンと渡り合えるのは安倍総理だけ」 産経新聞「正論」「安倍内閣『失速』はもったいない」「櫻田淳」

今日も国会で加計学園について、安倍総理が関与していなかったか、民進党を中心にした野党勢力が追求しているが(鋭く追求している口調やポーズが目につき、それがかえって信用できない。鋭い追求というのは、淡々とした口調であってもその真実味のある内容が伝わるものである)、安倍総理の退陣を目指して、野党の手柄をあげようとしているかに見える。
 
しかしながら、昨日の産経新聞「正論」に、東洋学園大学教授の櫻田淳が「習近平、プーチンのような各国政治指導者と渡り合える日本の政治家は、おそらく安倍総理を含めて3、4名しかいないという事実は、冷静に確認されるべきである」「世の人々は、政治家を『簡単に取っ替え引っ替えできる』存在であると考えないのが賢明であろう」と述べていている。
 
この櫻田淳の意見は、私には実に重要なことを指摘していると思え、そのことに気づいていない日本の国民大衆、大衆迎合のジャーナリズムは、日本を不利な方向に導いているのではないかと思える。
 
櫻田淳は、「外交感覚のない国民は、必ず凋落するという言葉がある」「一般国民の外交感覚は、政治指導層の対外政策展開を正当に評価し、対外影響力を支える外政家を意識的に輩出させようという姿勢に表れる」「安倍内閣失速に際して、もったいないという感覚を持てるかどうかは、その外交感覚の如何を占うものになるであろう」と述べている。
 
わかりやすい言葉で述べられていて、合点がいく内容であった。

2017年7月22日 (土)

不正を暴いた気でいるのだろうか? フジテレビ「金曜プレミアム」「実録!金の事件簿2 こんな奴らは赦さない 政治家の海外視察実態これってまさか観光?」香川県議会議員

昨日のフジテレビ「金曜プレミアム」「実録!金の事件簿2 こんな奴らは赦さない 政治家の海外視察実態これってまさか観光?」であるが、内容は、香川県議会議員数名のヨーローッパ視察旅行が、提携都市の表敬訪問で視察のつじつまを合わせ、実態は観光旅行であることを、出発時から尾行し、現地で突撃インタビューを行い、議員たちのしどろもどろの様子を映し、帰国してから県民にその映像を見せ、香川県民の怒りを視聴者に伝えていた。
 
初日に着いたドイツで、まずビアホールに入ったことを告げ、ジョッキにビールが注がれている様子を望遠レンズで捉え、悪事を発見した雰囲気にしているが、長旅が終わったとたんに、いきなり視察などしないだろうし、ドイツに着いてビールを飲まないやつなどいるか?
 
これは、報道機関として、不正の存在を突き止め、綿密な取材で証拠を掴み、事実を暴いたことを成果として誇っているのだろうか?
番組のホームページには「政治家の海外視察の実態がまさかこんなことになっているとは」とあるのだが、大部分の人は「海外視察なんて、どこでもそんなものでは?」と思っているのではないか?
 
不正な実態を取り上げて問題視するのはいいのだが、この番組は、ターゲットを定め、追跡取材を行い、隠しカメラで証拠を掴み、真実を暴いたことをスクープとして伝えているような様子なのであるが、そのようなことはそこら中に数多く転がっており、その気があるならば、手近なものを適当にちょっと突つけばいくらでも出てくるような内容だし、突つかなくても、「何で視察が必要なの?」と考えただけで分かるものもあるだろう。
多くの人が知っているが無関心なだけ(「困ったもんだ、ほどほどにしておけよ」と思っている)なのに、報道機関が取材力で突き止めたような演出をすること自体が奇異な感じがする。
 
議員や公務員、民間の会社員だって、予算を使える組織では、表向きの名目とは異なることに、例えば、慰労や報償や接待を目的とした、本来の趣旨とは異なる予算の流用は、現代社会の慣習となっており、そんなことは皆が知っていることであり、これしきのことを、ジャーナリズムが「突き止めた」などと自慢しては、社会を見る力がないのでは?と疑われるのではないか?
 
しかし、一人の議員に照準を合わせ、「無駄をなくすことを公約にしている議員」と画面にコメントを入れ、「無駄金を使っているのはお前だ!」と皮肉を効かせて、やっていることの矛盾を指摘して、自撮り棒を使う様子と一緒に、その滑稽さを笑いものにするなど、純粋な報道番組とは違い、娯楽番組らしく面白い。
 
そもそも、私自身が他人の会社が何をしようと口を出せる立場ではないのだが、番組製作においても、仕事と観光が混じるようなことはないのだろうか?公人と私企業の違いがあるとかではなく、ものごとに境目がつけにくく、混ざってしまう場合があることなど、世の中では普通だと思うのだ。
出張のついでに観光を楽しんだっていいと思うし、めったに行けない場所であれば当然だし、公費を使う場合は「限度を超えたらまずい」だろうが、「行政の参考にするたの文化の視察です」などというばかげた言いぐさでなく「ついでの観光です」でいっこうにかまわない(かまうだろうが、少しぐらいはしょうがない)ではないか。
 
「市民の大切な税金で観光するのはよくない」というのは、正義論をぶちたい野党が、世間からの支持を期待しながら言う台詞であろうが、ジャーナリストの目を持つべき報道機関は、「それは偽善ではないか?」と自身を見つめることはないのであろうか?

2017年7月21日 (金)

おかしいと思わないのだろうか? フジテレビ「奇跡体験!アンビリバボー」「戦死の夫からの贈り物!死後62年たち起こった奇跡」

昨日のフジテレビ「奇跡体験!アンビリバボー」で、第二次世界大戦で行方不明になったアメリカ軍のパイロット、ビリー・ハリスの消息を捜していた親族が、2006年に、フランスのある村に戦闘機が墜落した事を突き止め、死亡したパイロットの名前がビリー・ハリスだったことが分かった。
そこで、未亡人がそのフランスの村を尋ねたところ、広場にビリー・ハリスの名前がつけられ、1922-1944と存命した年と共に掲げられ、村人は皆その名前をヒーローとして知っており、60年以上にわたって慰霊祭が行われていたということであった。
 
これが感動の奇蹟であると番組で取り上げているのであるが、おかしくないか?
 
2006年ともなれば、情報通信の発達した現代であり、アメリカとフランスは最先端の文明国であろう。
このフランスの村の人たちは、パイロットの遺族を62年間探そうともしなかったのであろうか?
その事の方がよっぽどアンビリバボーである。
 
以前この番組で、「弁護士の不手際のために、すぐに真相が解明されるはずなのに、被疑者が長期間勾留されてしまったと思われる事件」を、「新人弁護士なのに、警察の捜査ミスを暴き出し、無実を証明したヒーローとして紹介」していて、あまりにも呆れたので、このブログに3回に渡って書いたことがあった。
(平成25年、大阪府警北堺署での「盗難カードを使って給油したと誤認逮捕」と報じられた事件)
 
「この弁護士は何をやっているのだろうか?」「この村の人たちは何をやっているのだろうか?」と私は思うのだが(弁護士については、ネット上に疑問が飛び交っていた)、この番組の制作者は、「自分の頭でものを考えてみる」ということができないのだろうか?

«せっかくのいいテーマなのに…… 日本テレビ「ウチの夫は仕事ができない」 奥田英朗「我が家の問題-ハズバンド」「うらはら」「コミック依存」「僕だけがいない街」テレビ朝日「黒革の手帖」